Pさんの目がテン! Vol.71 別の生と繋がることを夢見た哲学者 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』6(Pさん)


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 長くなったから、あとは適度に省きつつまとめよう、と思ったけれどもまた興味深い所が出てきたので、省けない。
 第六章、アクタイオーン。
 たぶん、各章の題材の切り取りは、この著者自身の、岡本源太の並べ方である。だから、それがブルーノの著作の中でこういう並びになっているわけでなく、おそらくもっとこみいっている。
 ともかく、アクタイオーンという、ギリシャ神話に詳しい人なら知っている、女神の水浴を覗いてしまって、鹿に変えられて、自分が率いていた猟犬に食われてしまうという、救いようのない人の話がある。
 それで、この挿話は、数あるギリシャ神話の挿話の中でも、日本神話でいうと天の岩戸のような感じで、話が純化され、理想化されて、くりかえしヨーロッパ中で語られる。その辺までは知っていたけれども、本書の中で、とくに詩人の詩想というか、本文にのっとれば「思考」のメタファーとして、それはアクタイオーン自身というより、覗いてしまった女神の視覚像、の方が近いかもしれないが、それとして語られていた。
 そして、いわゆる芸術家にとっての「ミューズ」といわれる人々がいるが、その意中の女性を詩にしたくて仕方がないといったようすで、片思いして苦悩する、その対象との関係を、例の神話になぞらえたりしている。
 荒木経惟の「ミューズ」がセクハラ的な扱いを受けていたという話も思い出され、一時期流行していたらしいそういう態度とか物言いを、僕個人としては「気持ち悪」と思うだけなのだが、そういう当時あった伝統を「ペトラルカ主義」と呼んだそうだ。
 そして、こんな所もニーチェと似た所を感じざるをえないが、そのペトラルカ主義的態度のことを、ブルーノは、メランコリックな態度だとして一蹴する。いや、そうだけど。容赦ないな。そういうメランコリーとは関係ない次元で、くりかえし出てくる、「英雄的狂気」の、つまり理想の哲学者の心理状態を思い描いている。
 では、その注目の「英雄的狂気」とは、いかなる状態なのか?
 曰く、「「英雄的狂気」の生とは、多様な生のなかから選び取られた一つの生ではなく、多様性が極限にまで高められた生」なのだという。
 本書は、この生の多様性という点と、ジェイムズ・ジョイスが、ブルーノ評の中で、ふと呟いた、「あらゆる生への憐れみの情」(ジョイスは、中世から近代への変化が、このブルーノの思考によって起こったと言っている)を結びつけて終わるのだが、ちょっと取ってつけたように感じられなくもない。
 けっきょく、多様な生を肯定する、ということが、全ての生への憐れみの情につながるということなのか? 人間の生のなかの、あらゆる感情が、すべて激情にまで高められた状態、というのと、憐れみという言葉は、どうも不釣合いだ。あるいは、憐れみのような、単なるまなざしのようなものこそが、極小がまた極大へつながるように、その狂気へと変化する、などと言葉の操作で言ってしまうことも出来るかもしれないが……
 二次的資料だけでは、当然のことかもしれないが、肝心の「英雄的狂気」について、完全には理解というか実感が得られなかった。

 最後に、こういう風にまとまっていると、なんとなく大枠はつかんだような気になるが、これはブルーノの哲学のほんの一部である可能性がある。
 誰にでもそんなことは言えるが、なぜ今回に限ってそうかというと、もう覚えている人もいないかもしれないが、以前「目がテン!」でもう一冊、ブルーノの理解の為に図書館で借りて読んでいる、P.ロッシという人の、「普遍の鍵」という本を取り扱った。中世の、どちらかというと錬金術とかオカルト寄りの哲学の歴史といった趣の内容で、ルルスという、中世にかなり流行した、記憶術師のことが、背骨のように一冊をつらぬいて語られている。
 そして、そんなルルスの研究書を、ブルーノは何冊も書いているということが、本書の最後の書誌を見てわかった。「ルルスの術の基本構造と補足について」、「ルルス結合術の灯について」、「ルルス医学」という書名が、少なくともルルスの名が出てくる書名で、また出て来なくても、おそらくルルス関連と思われるもので、「想起術」などがある。
 これらの要素は、本書ではごっそり取り扱っていない。そして、P.ロッシの「普遍の鍵」は、まだブルーノの記述には至っていないが、後半の部分で取り扱っている。しかしさらに、その二つをもってしても、ブルーノの哲学は、それに収まるものではないのかもしれない。
 安易な全体化はしたくないけれども、哲学というジャンルが、現在持っている領分に至るまでに、多くの部分が削られて、おそらく以前はもっと多様な内容を持っていたのではないか。ブルーノの言い分からいえば、生の多様性があるように、思考もまた多様になるべきである。また、プラトンから続く一門は、哲学というものが、暗記してしかるべきであり、何か家督に近い取り扱いも受けていたり、もちろん教育の中心にもなっていたような気配がある。これもまた、現在の哲学の領分とは違ったイメージをするべきなんだろう。
 まだ知るべきことは多い。

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