Pさんの目がテン! Vol.29 カフカと小説のゆくえ(Pさん)

 今日、ある人と四年ぶりで会って、自分と同じく小説を書いている人なんだが、そこで今後小説を書く上でどうしていけばいいのか、といったような話になったので必然的に白熱していった。
 そこで、いわゆる現状分析のような話にもなった、自分達の書いている小説の話にもなったけれども、四年という歳月は結果からすれば丁度よかったかもしれない。私達の小説に対するスタンスも変わっていれば、出版業界も作家の立ち位置も変わり、私生活が変わり、世の中が変わった。それぞれ、たかだか四年だけと言えるかもしれないけれども、その全部が変わったというのが、大きな変化である。
 大まかに言えば、その以前持ってた自意識みたいなものが今はいくぶんか削れていて、前より自由に書けるようにはなっている。しかし、僕はそれをすべて利用して書いているわけではない。とにかく量が少ない。
 今日、カフカの話が出た。カフカは、その他の作家との比較がそんなに出来るほど知っているわけではないけれども、とにかく本能みたいなものにひたすら駆られて、ものすごい量、書いていた。それで、ある程度念頭にはあったかもしれないけど、どこに出すとかどういう本にするとかいったことと別に、小説の断片のようなもの、見た夢の話、格言のようなもの、手紙、と場所を問わずひたすら書いていた。
 カフカは、もしかしてかなりヤバい人だったのではないか? でも少なくとも、周りの人から慕われていた様子が、日記には見られていた。

 その人に、先日同人誌読書会で取り扱った、時田市郎の「Merci and Fuck me」を渡した。センスが似ているところがあると思ったからだ。

 書くことは、量ではないかもしれない。しかし、尊敬する芸術家というのは、音楽や絵画のことだが、毎日とんでもない量の練習をこなす。この、音楽や絵画における練習というのが、小説において何に当たるのかというのが、僕にはいまだにわからない。とにかく書きまくれる境地、「カフカ境」と名付けるけれども、量が通り過ぎる時に、ふつうのスピードで通り過ぎるのとは、意味というものの持つ価値が変わってくる。小説に引き込まれてどんどん読み進める時に、単語の意味とか文意とかがだんだん後景に退いていって、小説内容の方が全面に出てくる瞬間がある。それと、書く瞬間とでは、意味が違ってくるけれども、その境地に至るまでは、ふつうの文章である。で、このふつうの文章を書いている状態というのは、明らかに演奏家が楽器を練習する際の手付きとか、画家がものすごい量スケッチをするのとは違う、ふつうの状態に思える。
 今、たとえ話で出したので、何となくイメージ出来たけれども、とりあえずば、ひたすらスケッチを取るようなものと思えばいいのかもしれない。

 今日の経験はなかなか一つにはまとまらないし、あとはとりあえず一人で考えようと思うので、これくらいにして、引用でお茶を濁す。

「君たちは何者なんだい?」と、彼はたずね、一人からもう一人のほうへと眼をやった。
「あなたの助手です」と、二人が答えた。
「これは助手さんたちですよ」と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。
「なんだって?」と、Kはきいた。「君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?」
 二人はそうだという。
「それはいい」と、ほんの少したってからKはいった。「君たちがきたのはありがたい」
(カフカ『城』、「第二章」冒頭)

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