Pさんの目がテン! Vol.43 幸徳秋水『基督抹殺論』を読む(2)(Pさん)

 本当に、何回前かわからないけれども、ここ最近続けている、聖書への言及であるが、何度も言うけど素人が首を突っ込んでいいことなのかどうかわからない。それがどういう影響を与えたとか、どれくらい広がっているとか、どういう深化した議論を生んだとか、生活を変えたとか、なんも知らんのである。
 それでも、目がどんどん逸れる。何となくページが進む。何か関係を結んで、変なものが見えてくる。知らないながらに進むしかない。
 キリスト教を、根底から否定しようとする意志に満ちたこの書、『基督抹殺論』は、今のところ(何十ページくらいしか進んでいないけれども)「キリストという人間が、いたかどうか。福音書は、史実として読めるか。聖書は、神の言葉であるのか」という、主にこれらの点に関して、徹底して否定しようとしている。
 しかし、これらが実証的に正しいとか間違っているといったことは、もしかしたらキリスト教の存在からすると、さしたる影響がないのかもしれない。
 続けてこの本では、四大福音書が、どういう形で、千幾百年かけて、何度かの公会議を通して、書き換えられてきたのかということを説いている。
 で、それを以て、「神の言葉が何度も話し合いで書き換えられているのは……」と続くわけだけど、書き換えられて何が悪いのかという気もする。
 聖書は、人に対して、善く生きろということを説くわけだが、その聖書が善いものであるかどうか、真正のものであるかどうか、というところは、じつは問われないのではないか?
 数学で公理系というのがあるが、その公理系の中で数式が動いたりする。公理系はその数式がどうであるか、存立理由や存在の否定をするわけだけど、まさに宣言している所では、その公理系自体が無矛盾であるのかどうか、公理系が正しいかどうかというところは問われないのである。
 それで考えると、聖書によって人が正しく生きられるのだとすれば、聖書自体が正しく生きる? 必要もない。ということになる。
 僕が言っているのは、実は何人かの人の発言の引き写しであり、自分の考えではない。正直に言えば、既存の考えを頭の中で機能させて、どちらかというと、その正しさを再確認しているというような感じだ。
 それ以外にできることがあるんなら、教えてほしい。

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