Pさんの目がテン! Vol.4 ヴァージニア・ウルフ「病むことについて」について 2(Pさん)

(前記事 Pさんの目がテン!(仮) ヴァージニア・ウルフ「病むことについて」について 1(Pさん)
 英語と日本語に訳された文とを並べて、いわば答え合わせのようにして英語を勉強しようとしていたのであるけれども、いざ借りた何冊かの内容を比べてみて、けっきょくほとんど被っているエッセイがないことがわかった。これで、この試みは頓挫したわけだけど、それは脇に置いておいて、やっぱりヴァージニア・ウルフのエッセイというのはほかの作家・エッセイストにはない魅力がある。
 何かと言われると一口には難しい。いろんな要素がある。
 それを知った初めの本は、「私だけの部屋」だった。これは、はるか昔に旧字新仮名の時代に訳された新潮文庫のもので、今はみすず書房の新装版ヴァージニア・ウルフ全集の一巻である「自分だけの部屋」、あるいは平凡社ライブラリーから「自分ひとりの部屋」として出ている。
 新潮社の旧い文庫でなぜ読み始めたのか。そもそもヴァージニア・ウルフのこの作品についてたいして知らなくて、古本屋だか古本市だかで、何か買っておきたい気分になった所で目に入ったのが、この本だった。ヴァージニア・ウルフの小説の方は、よく言われている意識の流れの名手、うんぬんとして知っていた。「灯台へ」も読みかけており非常に好きだった。それで、エッセイというか中くらいの長さの講演録のようなものみたいだけど一体どんなものだろうと開いて読んでみた所が、これが面白い。
 主張したいことがある。ふつうそれを書こうとしたら、多少流れとか強弱とかはあるかもしれないけどそのまま書くものだ。けれどもヴァージニア・ウルフは、「ここはひとつ、こういうシチュエーションを考えてみてほしい」と言って、架空の場所、架空の人、そして想像の中のやりとりが始まるのである。まあ、そこまでなら他の作家でもやることなのかもしれないが、ウルフの場合はそれが嫌みなく上品であるのと、小説的ですごく喚起力のある描写があるのが群を抜いている。
 やもすれば、情景の方に引きずられて、本筋が一旦保留されることもある。

たしかに、うららかな秋の午後であつた。木の葉が紅く、地上に舞い散つていた——そのどちらを選ぶにしても、大した障りがないのだつた。ところが、折から音樂のひびきが、私の耳にはいつてきた。いま、何か禮拜式か聖餐式が行われているらしい。禮拜堂の入口を通りかかると、オルガンが莊嚴に悲しげな調べを奏している。
 (ウルフ『私だけの部屋 女性と文学』、14ページ)

 もしかしたら旧仮名と言うのかもしれない。だが、あの特徴的な「さういふ」「だらう」という表記ではない。ほぼ促音の「っ」が大書きになっている新仮名である。また文字の大小の問題だ。まあ、この表記が何と呼ぶかはどうでもいい。こんな風に、大学のまわりを歩きながら風景を楽しむという部分も、けっこう長いことつづく。本筋を把握したい人は、そこでつまずくかもしれない。けれども、小説を読んで、その時空を共有したいと思う人であれば、むしろ楽しめる。
 そういう情景がゆっくり過ぎ行く中で、静かに、その主張は訪れる。女性だけ、図書館へのアクセスが自由にできないのか、女性が小説を書こうとする際に、当時の状況では、どうしても障壁があり、また書けたとしても、とてつもないバイアスが掛かってしまう等。
 話が進むにつれて、主張は主張らしくなっていきはするけれども、直接的で単純な語り方はせず複雑なものごとを複雑なままに語る、また強く主張するということがないので、読み手にスッと抵抗なく入ってくる。
 もっとも、その中にこめられているものは苛烈であるかもしれないけれども。
 以上が、前段の「私だけの部屋」の話である。(続く)

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