古畑任三郎漬け(Pさん)

 今日も古畑任三郎を、DVD一枚分見ていた。
 最初のシリーズである、「警部補 古畑任三郎」はすでに見終わって、次のシリーズに移った。
 警部補……では、何というか、いろいろな面で探り探りだった。BGMの使い方や、配役、設定など、まだフワフワしたままだった。
 第二シリーズでは、まず、今泉慎太郎のキャラが、これでもかというくらいに立っている。これの良し悪しもあるだろう。いいとか悪いとか言わない。「警部補」を外した段階で、何というか、今後何期も続けるという意志、観客の心を鷲掴みにしてやるという意志が、より、みなぎっている。
 今泉慎太郎が、深夜のスピンオフ番組を持つのも第二シリーズからである。第一シリーズの放映から、かなり確かな感触を得たのだろう。BGMも、それに伴ってかなり堂々とした、より構造化されたものに変わっている。今泉慎太郎だけではない。第二シリーズの何話目かで、初めて「向島音吉」が現れた。いや、彼は、現れたという以外に特に働きをしない。しかし、何らかの期待感を、登場するたびに増すのである。つくづく、他のドラマではあまり感じない、いろいろな独特な感覚を植え付けられたものだと感心する。
 たとえば、第一シリーズ、第七回の「殺人リハーサル」。時代劇の役者が、スタジオを潰そうとする経営者を、撮影用に用意しているイミテーションの刀と、本物の刀をすり替えて殺してしまう。話は流れて、古畑任三郎が解決するのだが、あの田村正和が、時代劇の役者と対峙するのである。役者は、スタジオであるけれども、自白の場面で、ほとんどスタジオとわからないカメラワークで犯人役の役者を切り、最後のアップでスタジオの上部の黒い空間を映す。
 これなんか、メタフィクションの感覚を自然に、映像的に植え付けられた経験だといえばいえる。

 桃井かおり扮するラジオDJが、ラジオ中に曲を掛けながら殺人を犯す「さよなら、DJ」、同じく第一シリーズの第十一回。言わずもがな、ここにおいて舞台で演じられ、のちに映画にもなった「ラヂオの時間」でフューチャーされている、ラジオ収録の場面というのが、あらゆる道具立てを利用してここでも再現されているのである。
 そうそう、とうなずかざるを得ない。ラジオというのは、ラジオブースを常に想像することであり、ラジオという日常を生み出す空間の中で、ハプニングを期待する場所なのである。
 ラジオの、パーソナリティーのトークと普段の会話の落差、オンエアのはじまる様子、リクエストされる曲、インカムの声、構成作家、ミキサー卓、乱入するゲスト、オフエアの様子、SE、時系列の操作、ラジオが音声メディアであること、同録、これらの要素、つまりは大体ラジオというシチュエーションで使いうるすべての道具を使ってこの回は、トリックが考えられている。
 極めつけは、僕の記憶にはなかったけれども、鶴瓶演じる推理作家のファックス送信によるトリック。(続かない)

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