神事 その他(Pさん)

 安全祈願祭に参加した。他の人も言っていたけど久しぶりにそういうものに参加するのだった。二時間前に練習があった。祭が始まる直前に廊下に並ばされた。並んでいるときに、安全祈願祭の練習が行われた場にあと十五分後に自分がいることについて強くイメージした。こういうこと、神事でなくイベント事でなくとも平時にでも自分が確実にいるであろう時空間について強くイメージすることによって、自分が今この場にいてそれをイメージしているのか、それとももう既にそのイメージされる側の場所と時間にいて過去を回想しているのかを曖昧にすることが出来る。故事の「胡蝶の夢」のもっと小規模なバージョンである。言葉にすると実に不思議なことのように見えるかも知れないけれども同様の体験をしている人間を、ラジオの投書で聞いたことがある。兄も同じような体験について語っていた気がする。それで、それは特殊な体験ではないという認識を今ではしている。ラジオの投書はもっと下品な話をしていて、「自分が猛烈に便意や尿意を感じていて、今家に帰っている最中であるとき、その五分も先ではない未来の自分が既にトイレで用を足していると想像し、その未来にいるかのように思いなすことによって、自分がどちらに今いるのかわからなくなるということをしている」という内容だった。その投書はこう続く。「よくそういうことをして脳内の遊びを行っていたけれども、ある日同じように便意(か尿意だったか忘れたが)を感じて、いつものように家に帰って既に用を足している自分を想像した。しかし、帰ったら家のトイレが工事中で使えない状態だった(あるいは、どういう状況だったにしろ家のトイレを使えない状態ではあった)。その瞬間、今まで想像していた未来が急に消えたことによって、先程まである程度のリアリティを持ってそこに「いた」であろう存在まで消えたような気がした。以後、その遊びをすることは無くなった」というものだった。僕は強度や頻度はともかくとしてことあるごとにこの「遊び」について思い出し、たまにやったりするのであるがやはり年齢と共にその強度みたいなものは弱まっているような気がする。安全祈願祭が始まった。もうその頃には安全祈願祭についてしていた想像、十分後に自分がいるであろう姿について想像していたということは単なる回想のサイズに納まっていた。神主か誰かが、今では理解することが限界まで難しくなっている言語で、「神がここに来てくれ」「この建物を未来永劫安全に、住む人間が平穏に、健康に過ごせるように後押しをしてくれ」「私は恐れ多くもそう言っている」と言っている。教科書で見たことのある中世の日本の洋服を着て、糊がパリパリに効いた状態で立って、振る舞っている。何で宗教事だけ、こうも古いことを引きずる運命にあるのだろうか。キリスト教のように、苦しむことが神にとって何らかのプラスになるのだろうか。神の苦しみを負うだとか、そんな教義はなかったような気がする。であれば、動きやすいポロシャツだとか、スウェットだとかいうものを着用の上、七夕飾りの菱形の紙が連なっているような棒を振り回してもよいものだろう。そういえば、それとは別に小さく切った色紙を四方に撒いている場面もあった。撒かれた人は、絶対に笑ってはいけない芸人のように、その色紙を被さって微動だにしなかった。色紙を片付けるのも神職の仕事なのだろうか。いろいろ思ったことはあったけれども、長くなったのでこれくらいにする。

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