校正についての一意見(Pさん)

 駄文を重ねることで、名文につながるなんてことがあるだろうか。
 ここしばらく、ノートの記事の書き溜めをしている。僕は、ウサギさんほどにはこういう類の記事をここに載せるとか、ここではこういうカラーで行こうとか、そういったことは考えておらず、「Pさんの笑ってコラえて」も、「好奇心の本棚」も、だいたい同じような発想とリズムで書いている。
 書く媒体が違う、という話は今まで何度もしたような気がする。半紙に書くようなことはしない。しかし、ルーズリーフに書くとか、パソコンでテキストにして入力しておくとか、こうしてノートに直接書いてしまうとか、しかも日記とエッセイと小説をそれぞれの媒体で書いているから、結果として、順列組み合わせで、九通りの方法と内容があることになる。
 当然、といっていいのか、それらが全然管理されずに転がっていて、とっ散らかっているのである。
 僕は元来そういうものをまとめようとか、一本化しようという工夫が不得手なのである。ちなみに言うと、「ですます」をまとめるようなこともしていない。職場で書かざるを得ない書類なんか見ていると、自分であえてですますをそろえず書いていたりする。本能的に書くとそうなるのである。また本能的に、そろえてしまうということもある。ある文章が、その含んでいる内容とそれがあたえる社会的位置みたいなものが、場所によって異なるということがよくあって、ここは対個人的だとか、ここは対社会的だとか、そんなような、文章界でいえば矛盾を来している文章というのも、会社にはよく転がっているもので、その存在様態で言えば、それをですますの統一を行うことは、実は違ったりするのである。
 なので、文法の教科書と首っ引きになって添削みたいのをしている人間を、小説を書く人でも会社で文書を生成している人でも、見かけると「バカか」と思いながら見ている。
 文章に全体主義は通じない。何らかの統一した意志によって何かを直すというのは、現実的には難しいし、そうやろうとしている人間は内部がまだらであるし、万遺漏なくなんてわけにはいかない。出る杭を一つ一つ均していくようなことをせず、それより一つ一つの触手みたいな特徴みたいなものが伸び広がる先を眺めている、くらいの気分でいる方が、楽しい人生が送れる。
 職場で、冗談みたいに、あるいは創作された文章と同程度に、詩みたいなリズムで、読点を多用する人がいて、なんだか素晴らしいなと思った。その人は、息をつく場所、そのもので、本当に、読点を、はさんでいるので、実は、それは、原義に近いことになる。

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