乗り越えるという選択肢
「もう辞めたいんだけどぉ!」
騒がしい大衆居酒屋の中で、
ビールジョッキを片手に次々に愚痴をこぼすミカ。
「課長がまじウザいんだけどぉ。どうして契約が取れないんだ。
今年度は計画達成するんだ。って、営業数字のことばっか!
家なんてさ、人生で何回もない買い物じゃん?
そんなに簡単に契約できっかよ!」
「まあまあ、ミカ。落ち着いて」
幼馴染のタカシが手を上下にしながら、なだめる。
ビールをグビグビ飲んで、口の周りに着いた泡を手の甲で拭う。
「辞めてやる!」
「でも、会社辞めて何するの?」
タカシはみかんサワーを手にしながら、ミカを見る。
「・・・。」
ミカはビールで火照った顔を歪ませた。
「まあ、とりあえず、頑張ってみれば?」
「無理ぃ!」
お酒が進み、ますます顔を赤くしながら、夜が更けていった。
「ふぁあ、昨日は飲みすぎたぁ。」
窓の外は、休日の朝にふさわしくない、どんよりとした曇り空。
目をこすりながら、ベッドから出たミカは、
会社用スマートフォンを手にした。
「はあ、結局さぁ、休日でも見ちゃうんだよねぇ。」
誰もいない、物が散らかっている部屋の中で、独り言が止まらない。
「わ、課長からメール来てるし。
えーっと、なになに、昨日の会議での発言は、和を乱すものでした。
以後気をつけてください。なんちゃらかんちゃら~って、は?
意味分からないんですけど。
だったら、昨日言ってよ!休みの日にこんなメールよこさなくても…」
シーン。部屋の中が静まり返る。
ミカのスマートフォンを持つ手が震えた。
コンコンッ。
「どうぞ。」
「失礼します。部長、お忙しいところ、お時間すみません。」
「いえいえ、座ってください。どうしましたか。」
「今年度で会社を辞めさせていただきたいと思いまして。
理由は、話し出すと泣いてしまいそうなので、
この紙を読んでください。」
「そうですか。読みますね。」
ミカは、A4用紙3枚の辞表(仮)を差し出した。
部長は、目を落として、ゆっくりと文字を追っていく。
「そうでしたか。辛かったですね。
中野さんは、仕事で楽しいって、思ったことはありますか。」
「え?仕事ですか…、それは、まあ少しはあります。」
「そうですか。ちなみに、辞めてどうするのですか?」
「・・・。」
ミカの口からは、何も言葉が出てこなかった。
「辞めるという選択肢もあるけれど…」
部長はしわしわの両手を前に出した。
左手を山のような形にして、
開いた右手をその山の上を風が通るように動かす。
「まだ、乗り越えるという選択肢もありますよ」静かな会議室の中で、ミカは膝の上に置いていた手を強く握った。
3年後。
営業部の表彰式。
シャンデリアが黄色い光を放つホテルの宴会場でドラムドールが流れる。
「今年の営業部のトップ成績は、首都圏グループの中野さんです!」
紺色のスーツに身を包んだミカは、ひな壇に向かって歩き出す。
「中野さん、ありがとうございました。一言、お願いします。」
「はい。」
ミカは、近くのテーブルに腰掛ける部長に目を向けて、瞬きをした。
「正直、トップ成績ということは、あまり嬉しくありません」
会場からざわめきが消えた。
「でも、2つ嬉しいことがあります。
1つは、お客様に喜んでいただける家づくりのお手伝いができたことです。
もう1つはー、少し長くなりますが、お付き合いください。
私は、ずっと、仕事が嫌いでした。
何のために働いているのか、分からなくなるときがありました。
思い通りにいかないことがあると、周りに八つ当たりもしました。
そんな自分が大嫌いでした。
ですが、3年前のある日を境に、頑張ってみようと思いました。
愚痴はなるべく言わずに、目の前のことを一生懸命に考えて、
実行してみる。
その積み重ねをしました。
そして、気が付いたら、今、ここに立っていました。
嫌いな自分という、目の前に立ちはだかっていた大きな山を、
乗り越えられた気分です。
ここまで来られたことを嬉しく思います。ありがとうございました。」
ミカは深々とお辞儀をした。
静まり返った会場に、パチパチと一人分の拍手の音が響く。
部長が立ち上がって、両腕を高くして拍手をしていた。
引きずられて、あちこちで、拍手の音が湧き出る。
大きな音が響く中で、ミカは一筋の涙を流した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?