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人のやる気をひきだすには――アメとムチの功罪――

国際日本学部 日本文化学科 教授 中村隆文
(現代英米哲学思想、リベラリズム、法哲学、スコットランド啓蒙思想)

1.アメとムチの功罪

 お金はないよりはあった方がよい。お金をもらえるならばもらうに越したことはないし、バイト先で時給が100円上がったときは、悲しくなるよりも、むしろ嬉しくなる。こうしたお金は一般的には、人を動かすインセンティヴ(誘因)として利用されてきた。いわゆる「アメとムチ」である。
 しかし、昨今、アメとムチの効果についてはいろんな検証がなされ、その限界も論じられている。複雑な認知能力を要する仕事の場合、高すぎる報酬をちらつかされると、モチヴェーションは高くなるがそのチャンスを失うまいと焦ったり、視野が狭くなってしまうなどの弊害がみられた。ではちょっとした報酬ならばよいのかといえば、そうでもなく、簡単なお手伝いの場合、2~300円程度をちらつかされるよりも、お金なしで「お願い!」と頼まれる方がより頑張るということが示された実験もある。
 では、罰金ならば誰もが嫌がるので、必ず効き目があるだろうかといえば、そうでないケースもある。10分遅刻するたびに300円ちょっと罰金を支払ってもらうシステムを託児所に20週間導入したところ、実験前の遅刻者数が、実験終了後には2倍になったという報告がある。

 どうしてこのようなことが起きるのであろうか。その一つとして、お金の「量」が引き起こす比例的反応というものがある。つまり、お金がいくらであるかそれ次第によって、「〇〇円の分だけ頑張ろう」とか、「〇〇円の罰金なら、〇〇分遅刻してもいいかな」と判断するのである。何かと引き換えに(手放す→off)、何かを手に入れるのを経済学では「トレードオフ(trade off)」というが、まさにこのトレードオフ思考によって、提示されたお金というものがその努力を限定したり、あるいは本来減らしたかった違反行動を増やしてしまったのである。


2.お金はほしいが・・・

 ポイントは、(1)お金の導入により、最初からそれに向かっていた(内発的)動機が失われてしまうことがあること、と、(2)「やる気」と「パフォーマンス」は別モノということ、である。
 内発的動機が失われるというのは、その人がそもそももっていた、物事へ取り組む気概や、他者への配慮の気持ちが、「お金」にかき消されてしまうということである。たとえば、自発的に献血する人は社会貢献の気持ちが強いが、そんな人に、「いつもタダで血をもらうのは悪いですから、300円払いますよ」と提案するとどうなるか?「私の血の価値はその程度か?」とか「そんなつもりでやっているわけではない」といって、献血から逆に遠ざかってゆくこともあるだろう。また、大金をちらつかされて「やる気」が高まったとしても、それが「パフォーマンス」の向上に直結するわけではない。荷物運びなどの単純作業ならともかく、複雑で認知的負荷がかかる知的作業においては焦りが生まれたり、思考作業に集中できなくなってしまう。

 それでもまだ納得いかない人には、こういうたとえ話はどうだろうか。大学生になったAさんは生まれてはじめて交際というものをするようになり、その相手であるBさんと緊張しながらも初デートを楽しみ、最後にはみなとみらいの綺麗な夜景をみていたとする。そこでBさんはおもむろに「今日はありがとう。とても楽しかったよ。はい、3千円あげる。この前、お金欲しいとか言ってたでしょう」と千円札3枚をAさんに差し出してきた。さて、Aさんはどう思うであろうか?おそらく多くの人が「Aさんは戸惑うよね」と答えるだろう。
 Bさんは経済合理性の観点からは特に悪いことをしたわけではない。喧嘩もせずに一緒にデートを楽しんだことはAさんにとって高い効用(満足度)を与えたし、そのうえ、お金をくれるというのである。プラスの事態にさらにプラスのお金を加えたこの振舞いのどこが間違っているというのだろうか。

 それはお金のメッセージ性にある。バイト先や職場で受け取る「お金」は、提供した労働への見返りや感謝の意であり、だからこそ、賃金としてお金をもらうことに誰も抵抗感をおぼえない。しかし、そのお金を、非労働の場面、すなわち親密なプライベート空間にもちこむことは、そこを「労働の場」とするような振舞いであり、お金に還元できない(あるいはすべきではない)価値を、お金で数値化するかのようなものである。デートにでかけて歩くのは労働ではないし、好きでやっているだけなのに、その気持ちに値札を一方的に貼るかのようなBさんの振舞いは、相手に対するメッセージの出し方を誤ったといえよう。

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3.相手を尊重するということ

 大事なことは、「お金」という道具をもって、人を操ろうとしすぎないことである。人間というものは多面的であり、お金は欲しいが、場合によっては欲しくないときもあるし、お金をあげれば予想通りの働き方をするというわけではない。お金のチカラには限界があることを理解する必要がある。しかし、このことをもって「じゃあ、お金は不要なんだ」と言ってしまうのは、それもまた人間の多面性を見過ごすものである。貴重な時間とエネルギーを費やしてくれた労働者に対し、その報いとして相応のお金を支払うのは雇用者の義務であるし、それをしないのは不正義である。


ただし、賃金として支払われるお金であってもメッセージ性をもっていることを忘れるべきではない。雇用者が、「いつもありがとう」とばかりに感謝の気持ちを伝えながら給料を渡せば、従業員はそのメッセージをポジティヴに受け止め、さらに頑張ろうと思うだろう。しかし、もし雇用者が、「おら、こんだけ払ってやるから感謝しろ」と上から目線で給料を渡すとすれば、それは従業員の尊厳を傷つける振舞いである。それが我慢の限度を超えれば、給料が安くても自分を尊重してくれる会社へと従業員は移るだろう。そのとき、「なんでやめるの?理解できない!」と雇用者が嘆くとしても、それは人間の感情を軽んじた自身の不合理性に起因したものでしかない。目の前の相手は、利益を欲しがるだけのエコノミックアニマルではないことを理解したうえで、より良い関係を構築してゆくことが大事なのである。


*2022年3月に刊行された、中村隆文『組織マネジメントの社会哲学――ビジネスにおける合理性を問い直す――』(ナカニシヤ出版)では、行動経済学や心理学の観点から、こうした人間の動機づけの話をしているので、関心がある方には是非手に取ってもらいたい。

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※本の内容を簡単にまとめた動画をYouTubeにアップしてありますので、よろしければご視聴ください。

中村 隆文
国際日本学部 教授・現代英米哲学思想 スコットランド啓蒙思想