ゾンビを巡る覚書
平成末頃に書き残していた文章をそのうち書き直したいのでメモ代わりにここに写しておく。
ゾンビとは不明確な存在である。実体として不明確ではなく、観念として不明確である。
ゾンビについて論じる前に、死者一般について確認しておくべき点がいくつかある。
まず、我々は死者を恐れる。死そのものを恐れると同時に、「死んだ(でいる)者」を恐れる。我々が死そのものを恐れているのは、自明なこととして、本稿では詳細には論じない。ただし、我々が抱く死への恐怖が、「生の喪失」に対するものなのか、「死の発生」に対するものなのか、それとも両者は区別することが不可能なのか、については探究するに値する課題であることは強調しておく。
死者であれば他人であろうが身内であろうが等しく恐れるのが我々の心性である。
駅を降りて夜道を一人で歩いている。後ろから足あとが聞こえる。路地に入っても大通りに出ても、その足あとは一定の距離を保ってついてくる。歩みを速めても緩めても、寸分違わぬピッチで足あとはついてくる。帰宅までもうあとわずかというところで、足あとはにわかに接近し、ガッと後ろからあなたの肩を掴み……
これは実在の人間に対する恐怖心であるが、こうした恐怖心が成り立つのは、後ろからつけてくる足あとが自身と心理的距離の存在する他者のものであるからに他ならない。肩を掴まれた瞬間は、まさしく生きた心地もしないような恐怖感に包まれるだろうが、振り返ってみて、それが家族であることが判明すれば、安堵が全身を駆け巡り、先程までの恐怖感は雲散霧消する。
ところが死者の場合は話が別である。自宅のベッドで眠りについていると、どうにも体の自由が効かない。起き上がることも寝返りを打つことも顔を動かすことすらもままならない。次第に体には寒気が走り、全身が濡れタオルのように重くなっていく。ついには呼吸も満足にできず、脳を蝕む抽象的な恐怖に耐えられなくなり、必死の思いで何とかまぶたをこじ開けると、そこには人間の顔だけがぼうっと浮かび上がり……
ここで浮かび上がった顔が、全く見知らない者であった場合、あなたはまず空き巣や強盗の可能性を思い、恐怖するであろう。いたずら好きの弟のものであった場合は、一気に怒りがこみ上げるかもしれない。しかし、先月亡くなった祖母のものであった場合、あなたは泡を吹いて失神するに違いない。
幽霊は怖い。死んでこの世からいなくなったはずの者が目に見えるのは、非常に恐ろしい。しかし、考えてみればこれは妙な話ではないか。
ホラー映画や小説のおかげで、幽霊にはグロテスクな見た目や呪いの力などのネガティブなイメージが刷り込まれている。ところが、そこから生じる恐怖感は、あくまでグロテスクな見た目に対する生理的嫌悪感や、呪いの力に晒される自身の身体や生命の危険から生じるものであり、幽霊そのもの、死者そのものを恐れるべき合理的な理由は存在しないはずである。長らく会っていなかった知り合いに偶然再会したときの我々の心の動きを念頭におけば、むしろ、幽霊との遭遇は、本来会えるはずのなかった者に会えた経験として、喜ばしいものとして記憶されるべきものである。にもかかわらず、我々は幽霊との遭遇という事実を恐怖する。
具体的なレベルで幽霊と遭遇した経験を有する者は、(少なくとも俺の観測するかぎりは)きわめて少数であるから、想像の域を超えない議論しか出来ないが、少なくとも抽象的なレベルにおいて我々が死者の存在一般を恐怖するというのは、広く承認された認識であるといって良いであろう。
我々が死者を恐れる理由の一つとして、それなりに妥当性のあるものと考えられるのが、死者の没交渉性である。理不尽に思えるような行動であっても、相手とコミュニケーションを介した結果、当該行動の意図や目的が分かれば、(理解・納得できるかどうかは別として)恐怖心は薄れるものである。
しかし、意図の分からない行動は怖い。彼氏から誕生日に送られる花束は、ロマンチックな喜びを喚起しうるものであったとしても、何でもない平日に、差出人不明で自宅に花束が届くのはちょっとした恐怖である。差出人が分かっても、何のメッセージも添えられておらず、その人物と連絡する手段を持ち合わせていない場合も同様である。
他者との没交渉性は、ネガティブな妄想を増幅させる。いかなる他者から微塵の恨みも買った可能性は露ほども存在しない、と断言できる聖人君子意ならいざしらず、我々は大なり小なり、某かの罪悪感を抱いているものである。生前にコミュニケーションのとれる他者として接しているうちは、無視できたような「ちょっとした申し訳なさ」も、相手が死に、没交渉な存在と化してしまうと、些細な罪悪感の一欠片は、坂道を転がる雪球のように増幅していくのかもしれない。そうして増幅した後ろめたさを鏡のように目に見える形で映し出すのが、幽霊であると仮定するならば、本来喜ぶべき死者との遭遇が、耐え難い恐怖であるのも納得できるところではある。
さて、我々が死者に対して感じる恐怖が、右のようなものであったとすると、ゾンビを恐れる理由も、同様に考えることができるだろう。ここでゾンビとは、「死んでいることが明らかであるにもかかわらず、自律的に運動するかつて生物であった肉体」とする。議論を一般化するために、人間には限定しないし、ホラーイメージとして刷り込まれている「生きている人間を食らおうとする」「酷い外傷が存在しグロテスクな見た目をしている」などは定義に盛り込まないことにする。「生きている人間を食らおうとする」存在が怖いのは、ゾンビに限ったことではないからである。生きている健康的な人間であっても、突然自分を食らおうと襲いかかってくるような存在は、怖いに決まっている。
幽霊とゾンビの違いを強いて挙げるなら、肉体性の有無といって良いと思われる。幽霊についての一般的なイメージは、「足がない」「透けている」「壁をすり抜ける」といった、虚ろな存在感が共通項として挙げられるが、ゾンビにはそれがなく、物理的存在感というか肉感というかがそのまま残っている。こうした違いゆえに、ゾンビは幽霊に比べると、やや没交渉性が弱いきらいがある。ゾンビには少なくとも触れることができる。とはいえ、一般的にいって、ゾンビもコミュニケーションが取れない者であり、それが故に恐怖を喚起する存在であると考えてよかろう。『さんかれあ』という漫画では、意思疎通を図れるゾンビが主人公として登場するが、一読いただければ、俺の言っていることがイメージできるはずである。
死者は我々と没交渉な存在であり、生者と死者はコミュニケーションをとることが出来ない。そのため、死してなお運動を続けるゾンビを見ても、「何をしようとしているのか」「何の目的でこちらに近づいてくるのか」「何を伝えようとしているのか」といった類のことを、我々はけっして知ることはできない。
ここで「けっして」という副詞は決定的に重要な意味をもつ。「相手の意図が分からない」ということは、生者同士の交流においても、もちろんあり得る。目の前に向かい合っている親/兄弟/友人/恋人が何を考えているのか良く分からない、という事態は希少であるどころかむしろ日常であるといって差し支えない。しかし、いくら頻繁に生じるとはいえ、それはやはり特殊で偶発的な事象に過ぎない。どれほど意図の掴みづらいそりの合わない相手であろうとも、相手が生者である以上コミュニケーションにいて「理解し得る」余地は、抽象的なレベルでは常に残り続ける。
相手が死者である場合はそうはいかない。そもそも死者と十全なコミュニケーションがとれるのなら、それは死者とはいえない。我々は死者が没交渉な存在であるからこそ、死を(死者ではなく)恐れるとさえ言える。死してなお残された生者とコミュニケーションをとる手段が残されているのであれば、我々の死に対する恐怖、換言すれば、死によって失われると見積もられる効用は大幅に減少するであろう。
死者とはコミュニケーションが取れない。ゾンビは、死んでいるにもかかわらず我々と同じような身体的運動をする。没交渉な存在でありながら、我々と同じ生活空間に存在する。我々と同じ時間を共有する。その矛盾した現象に対する飲み込みがたさこそが、我々がゾンビを忌み嫌う根本の感情といえる。
ここまでの議論において、意図的に避けていた問題がある。すなわち、「何をもってゾンビと認識するのか」というメタ的な問題である。我々はゾンビを「死んでいることが明らかであるにもかかわらず、自律的に運動するかつて生物であった肉体」と定義した。ひとまずこの定義に誤りはないものとして議論を進めるが、この定義において問題となるのは、「死んでいることが明らかである」とは、果たして具体的にいかなる状態を意味するのか、ということである。
いったい我々は、いかなる事実の観測をもって、「死んでいる」と判断するのであろうか。
最も素朴な死の定義は、「心臓が止まっている」というものであろう。心臓という臓器が、生命の維持に決定的に重要な意味を有しているという理解を、我々が共有しながら生活していることは、もはや言うまでもなかろう。テレビドラマで、登場人物の死は、無機質な電子音と共に表示される心拍数=0によって示される。だが、そうした常識的知識を、我々は日常の中で、どれほどの実感をもって生活しているのだろうか。
考えてもみてほしい。一日の生活のなかで、自分の心臓が鼓動していることを自覚する瞬間が、どれほどあるだろう。極度の緊張・興奮状態にあるときを除いては、自分の鼓動や脈拍などを、意識していない時間帯の方が圧倒的に多いはずである。あるいは、身近に接する他者の「心臓が動いていること(=生きていること)」をどれだけ認識する機会があるというのか。他人の鼓動を感じるほどに接着して、「生きている」ことをいっそう実感するという経験のある者は少なくないだろうが、それは、裏を返せば、他人の鼓動を感じずとも、他人が生きていることは自明のこととして扱っていることを意味するのではないか。だとすれば、「心臓が動いている/いない」を生死の基準とするという学術的認識は、我々の日常生活においては、ほとんど機能していないことになる。その程度の認識能力しか持たない我々にとって、一体どうやって、眼前のゾンビが「死んでいる=心臓が止まっていることが明らか」な死者であると認識することが可能なのだろう。「当該肉体が心電図に繋がれていて、画面が心拍数=0を表示しているにもかかわらず、自由に動きまわっている」という特殊な事態を仮定しても、我々はせいぜい「心電図が壊れている」という認識が出来るにとどまるのではないか。
「心臓が止まっている」ことが日常的な生死の判断として機能していないのだとしたら、より深化した死の定義である「脳死=脳波が止まっている」も同様に、ないしはそれ以上に機能しない。もし日常的に他者や自身の脳波の存在を感知している者がいれば、彼は保護されるべき貴重な進歩的人類であるか、同情されるべき重篤な中二病患者であるかのいずれかといえよう。
より生活直感に根ざした死の定義としては、「体温の低下」「筋肉の硬直」などが挙げられよう。実際親族やペットなどの死を、その身に最も痛感するのは、訃報を聞いたときでも、葬式に参列しているときでも、お骨上げのときでもなく、死体に直接触れたときである。日常的な触れ合いでは感じたことのない肌の冷たさ、自律的なものを一切感知し得ない肉の硬さに、我々は、自分とは絶対的に異質な「モノ」としての存在を知覚し、筆舌に尽くしがたい恐怖と喪失感を味わう。まさに没交渉性の具現である。
しかし、この二つの要素によって、ゾンビを認識できるかというと、これまた疑問を覚えざるを得ない。まず、「体温の低下」という要素については、冷え性な人間にはお馴染みであろうが、生きている人間の表面温度も、かなりの程度まで低下する。死者の手と冷えきったときの自分の手の表面温度を正確に比較したわけではないが、個人的な経験からすれば、生きていても同程度に感じられる程度には冷える。したがって、その辺をうろついている者の手を握って氷のような冷たさを感じたとしても、「ちょっと、大丈夫?」とは問うにせよ、「こいつ、死んでやがる」などとは思わないだろう。そもそも、いかなる映画やドラマでも、手を握ってゾンビか否かを判断しているシーンなど見たことはない。「死んでいる」と直感するのに「体温の低下」だけでは不十分である。また、「筋肉の硬直」はゾンビについては論理的に成り立ち得ない。ゾンビとは「動く死体」である。筋肉が実際の死者のように硬く硬直している状態であれば、そもそも動くことはできないだろう。ゾンビを触った経験がないから分からないが、少なくとも表現物を観測する限り、ゾンビに「硬そうな」イメージは存在しない。ゾンビとは、「柔らかい死体」なのである。
実は、「体温の低下」や「筋肉の硬直」によって死を痛感するためには、それ以前に満たしておくべき前提条件がある。すなわち「動いていないこと」である。「ぴくりとも動かず、眠っているかのごとく見える姿」の者が「氷のような冷たい硬直した肌」をしているとき、我々は死を直感する。すなわち、「死の明白性」が満たすべき日常直感的定義は、「動いていないこと」となる。
さて、改めてゾンビの定義を思い出そう。ゾンビとは、「死んでいることが明らかであるにもかかわらず、自律的に運動するかつて生物であった肉体」である。これに、「死の明白性」の日常直感的定義を代入すると、ゾンビ=「動いていないにもかかわらず、自律的に運動するかつて生物であった肉体」ということになるが……??
これは明確な矛盾である。この矛盾を我々はどのように考えれば良いのだろう。改めて確認しておくが、本稿で論じているのは、我々が実際に認識する可能性が最も高い、いわば「生活的な」ゾンビについてである。死の定義について論じた場面で見たように、「心臓が止まっているが動く肉体」「体温が著しく冷たいのに動く肉体」というのは、理屈の上では、いくらでも考えることができるが、実際にそうした「もの」に遭遇したときに、我々の日常直感は、それを死者だと認識できそうにはない。
さて、生活的なゾンビとは「動かざる動く肉体」である、という撞着した定義に我々は、どう向き合えば良いのか。ここまでの議論のどこかで見落としがあるのかもしれない。一旦前提を疑って、より厳密に「動かないこと」の意味を追求しよう。
まず、ここでの「動かないこと」とは、「(現実的に加えることの出来る範囲において)どれだけの外力を加えても動かすことができない」という物理的不動を意味するのではない。どんな死体でも、外力を加えれば、(生者より動かすことが難しい場合もあるが)、容易に動かすことができる。ここでいう「動かない」とは、「当該肉体の意志によっては動くことができない」という自律的不動と、「外部刺激による当該肉体の反射運動が観測されない」という反射的不動を足し合わせた意味を有する。要するに、「自律性と反射性を失った状態」を、我々は「動かない」=「死」であると認識していることになる。
勘の良い読者であれば、もうお気づきであろう。「自律性と反射性を失った状態」ということだが、我々は既にこの状態について論じている。そう、「自律性と反射性を失った状態」とは、コミュニケーションの不可能状態、すなわち、「没交渉性」を意味するのである。
自律した意志作用が見られないのだから、相手が何を考えているのか分からない。こちらがいかなる刺激を加えたところで、何の反応も見られないのだから、相手が何を考えているのか分からない。こうした「没交渉性」は、我々がゾンビ、ひいては死者一般を恐れる理由なのであった。これだけ議論を重ねた結果、結局元に戻ってきてしまった。「我々は、死者が没交渉な存在であるがゆえに死者を恐れる。死者とはすなわち、没交渉性を有するに至った肉体のことである」とは、まるっきりトートロジーではないか。ゾンビについて考えれば考えるほど、トートロジーに陥ってしまい、定義が一向に定まらない、どころか矛盾した定義が得られてしまう。これが、本稿冒頭で述べた、「ゾンビとは観念的に不明確な存在である」という意味である。
さて、ここまで議論してきたゾンビが、常に「他者のゾンビ」であったことにお気づきであろうか。死の生活的な定義に「心臓の停止」や「体温の低下」を採用しなかったのは、我々が日常生活において、他人の心臓の動きや体温を認識することが稀だからである。
では、少し視点を切り替えて、「自己のゾンビ」について考えてみよう。「自己のゾンビ」についてであれば、「心臓の停止」や「体温の低下」を生活的な死の定義として用いることが可能なのではないか。
自分の体温や心拍数については、他人のそれに比べれば、かなり認識が容易であると考えられる。手首を握って脈拍を測る日常的な習慣のある者はごく少数であろうが、他人の脈拍を測るよりは、遥かに把握しやすい。体温の低下についても同様である。もちろん、死してなお感覚が残存するかという疑問は生じるが、自分の感覚が消失したことには気づかない方が難しいため、その点は問題ではない。朝、目が覚めて自分がゾンビになっていれば、何かしらの違和感を我々は覚えるであろう。とすれば、我々自身がゾンビになるという事態は、他者のゾンビ性を生活レベルで認識する事態よりは、あり得そうである。
自分のことであれば、死の定義に「動かないこと」を持ち込まずとも、自身の死を認識することが可能でありそうだ。したがって、自己のゾンビについては、「動かざる動く肉体」という矛盾した定義を使う必要はない。
では、ゾンビになった自分について具体的に考えよう。私はゾンビである。心臓も動いていないし、体温も極めて低い。にもかかわらず、生きているかのように動くことはできる。こうした異常事態は、自分一人でいるうちは、強烈に意識されるだろう。生なる世界における異形の者となってしまったことを嘆き悲しむかもしれない。心臓が動いていないにもかかわらず、四肢を動かすことのできる自分の気味悪さに、それこそ「自殺」してしまいたくなるほどの嫌悪を覚えるかもしれない。しかし、他者を介在させたときに、自分がゾンビであることの意味は、全く異なるものとなる。
言うまでもなく、他者から見れば自分こそが他者である。そして、ここまで論じたことを裏返して考えれば、「動く他者」としての私は、他者の目には死者としては映らない。何かの拍子で肌が触れることで、その異常な体温の低さを心配されることもあろうが、それは直ちに私が死者として扱われることを意味しないことは、既に見てきたことから明らかである。とすれば、私はゾンビになったときに、「死者だと自認しているにもかかわらず、他者からは生者として扱われる」という事態を経験することになる。さて、このとき、私は死んでいるのだろうか、それとも生きているのだろうか……
まったくもって、ゾンビとは不可解な存在である。「想像上の産物に過ぎないのだから、不可解なのは当たり前である」、あるいは、「いくら考えても不可解で、矛盾に陥るのであるから、ゾンビは存在し得ない」、などと常識人ぶるのは簡単なことである。しかし、一連のゾンビ論考について俺が明らかにし(ようとし)たのは、我々の認識能力の脆弱さである。
生と死という、最も重大で、だからこそ最も単純な二項対立でさえ、我々の知覚は十全に把握することができない。我々が他者の死に触れて大きな悲しみと慄きに包まれるときに認識しているのは、実際のところ「他者が動かない」というただそれだけの事象に過ぎない。それを死であると解釈できるのは、純粋に文化的な学習の産物に他ならない。であるとすれば、我々に把握が不可能(ないしは著しく困難)であるだけで、我々の文化を逸脱した死や生が存在するということは十分にあり得る。先に二項対立という言葉を用いたが、ひょっとすると生と死は、そんなにデジタルなものではなく、生でも死でもない状態というものがあるのかもしれない。それこそがゾンビであると言うにはまだまだ軽率であるが、ゾンビを巡る論理的な問題は、我々の死生観に新たな光をもたらす可能性を十分に含んでいるのである。
隣の席に座っている人物が、ゾンビでないなどと、一体誰が断言できようか。
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