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ちょいと昔、母と。

「あのな、母さん、とうとうな……」

 ベーコンエピを一ブロックに千切ろうとしていた僕の指はぎくりと止まった。仕方ないだろう。僕の母は、身長も高くって、赤紫色のメッシュなど入った髪型なんかしているから、それなりに若く見える(近所の子供から「あ、紫のオバちゃん!」と指さされるのが最近の悩みらしい)けれど、つい先日還暦を迎えたところなんだ。而立から不惑へと近づきつつある息子に対して、神妙な面持ちでそんな何かを匂わせる口ぶりをされちゃ、深刻な病気でも見つかったのかと思うのも無理はない。不吉な考えだと非難されるよりは、むしろ親孝行だと褒めてもらいたいくらいだ。ん?と僕は喉で相槌を打ったものの、母の口から次の言葉が出るまでの一秒かそこらの時間、大変な不安と動揺を感じずにはいられなかったんだ。

 「大事にしてたゲームのアプリをついに消去してん!」

 ベーコンエピを千切ろうとしていた僕の指は再びぴたりと止まった。でも、今度のは、呆れと安堵が入り混じったやつだ。ああ、いっつもやってたカードゲームなんかボードゲームなんか良く分からんあのゲームね、と、僕はベーコンエピを仕切りなおすために、マグカップの中のコーヒーのようなものを一口飲んでから答える。
 母は数年前から林檎のロゴのタブレット端末に夢中だ。うつつを抜かしているといって良い。社交性に乏しく出不精でテレビと読書ばかりの内向きな生活を過ごす母に、少しでも外の世界とのアクセスをと思って数年前の母の日に僕がプレゼントしたものだ。いくら教えてもパソコンはまともに操作出来るようにならなかった母も、指でなぞるタブレットは身体が調和したらしく、ぐんぐん使い方を覚えていった。通販で物が買えるようになり、インターネットを介してラジオを聴くようになった。家族の写真はクラウドで保存・共有が出来るようになったし、少し分からないことがあると、すぐに「ググる」習慣がつくようになった。タブレットは、大いに母の行動を変化させ、それは概ねポジティブなものだったのだけれど、結局のところ、母の心を一番にとらえたのは、種々のゲームアプリだったようだ。

 母のゲーム好きは今に始まったことではない。僕たちが子供の頃からずっとそうだった。携帯ゲーム機ではなくテレビに接続する据え置き型のゲームが主流であった当時、兄弟とゲームの順番を取り合うといったことは、少なくとも僕たちの世代ではとてもありふれた家庭の情景であったけれど、我が家の場合、ゲームとは母と取り合うものだった。母がゲームをしていない時間帯しかゲームに触れることの出来ない我が家の子供達にとって、「ゲームは一日何時間まで」といった定量的な制限は必要ではなかった。(そんなもの決めたところで、誰よりも母が守ることなどできなかったのだろうけれど)

 そんな母は、最新の林檎のタブレットを手にしても、結局ゲームに熱中することになった。起動の手間や中断の操作の不要なゲームアプリは、なおのこと母のゲーム依存を加速させたようで、父が帰宅しても画面から顔を上げようともしない母の姿を見るたび、僕のプレゼントは何か間違っていたのだろうかと、父に申し訳なく思ったりもした。

 「でな、普通のゲームと違って、アプリのゲームって終わりがないやん」

 母は、件のゲームについて語っている。僕はようやくベーコンエピを千切れたところだ。

 「でも、イベントで新しいアイテムとか出てくるから、それは欲しいし、そのイベントの時間のこと考えてたら、タブレット置いているときとかでも、ずっとそのゲームのことばっかり考えててな。正直イベントまで全部こなさんくっても、もう戦力は整ってるから、クリア出来ないとことかは無いんやけどな、もう後は世界で何位につけるか、とかそういうことばっかりやってて、アホらしいなあとは思いつつも、なかなかやめられへんかってん」

 今、僕の前で滔々と語っているのは、十六歳の高校生男子ではない。六十歳の専業主婦である。

 「ほとんど毎日、もうやめようもうやめよう思っててんけどな、でもそんな世界で何位とかいうレベルまでやり込んでるわけやし、そこそこ課金もしたわけやし、そのデータ消したら勿体ないなあとか思って……」

 僕が母に頼まれてタブレットに登録したクレジットカード情報は、確か父のものだったはずだ。課金額がいくらかなどは聞かないでおこう。家庭円満を願いながら僕は無言でベーコンエピを口に放り込む。

 「でもな、こないだ、つい三、四日前くらいかな。意を決して、えーいって消去してん。どう?」

 どう?とはどういう意味だろう?母の表情から察するに、ひょっとして褒めてもらいたいのだろうか。むしろこちらが訊きたいくらいだ。消してみてどうだった?やっぱり勿体なかったと思う?

 「いや、それがな、消したその日はちょっと後悔とかあったんやけど、意外と全然気にならへんねん。というより、もういちいちイベントの時間とかそのためのスケジュールとか考えんで済むようになって、解放されたくらい。ほんまに生活の一部になってしまってたからなあ。でも、いざ無くしてみたら、全然大したことなかってんなあって。かなり時間もお金も費やしたはずやのに、まだ昔のゲームがデータ消えたときの方がショック大きかった気がするわ」

 へえ、そういうものなのか。僕は妙に得心した。断捨離なんて言葉が少し前にブームになったくらいだ。人間の執着心なんてものはまやかしに過ぎなくて、実際のところは、何ら中身のないものなのかもしれない。僕の教えているすべての受験生に教えてやりたいくらい、清々しいエピソードだ。それにしたって、なんだって母は、このタイミングでゲームの消去などと思い切るに至ったのだろう。まさか受験勉強に専念するため、なんてことはないだろうし。

 「あー、いやな。データが一杯一杯になっちゃってな。ほら、可愛い孫の写真とか動画とかいっぱい撮らなあかんやろ?特に動画がな。一分かそこらの撮るだけでも、いっぺんにデータ食うねん。だから、何とか空きを確保しようといらんもの少しずつ消去していってたんやけど、そのゲームがえらいデータ食ってることに気づいてなあ。さすがにそのためだけに容量大きいタブレットに買い換えるのもあれやなあと思って」

 ははは。思わず笑い声が出た。すごいなあ、赤ん坊は。六十にして耳順うとは言うけれど、僕や父がいくら苦言を呈したって動こうとしない頑とした母を、まだ生まれて半年くらいしか経っていないってのに、その愛らしさだけで動かしたっていうんだ。ははは、すごいなあ。

 「そんな笑いなや。孫がおらんでも、そのうちやめてるよ。何や失礼やなあ」

 いやあ、どうかなあ。新しい命は偉いわ。
 母は何ともバツの悪そうな表情だが、僕の笑いは止まらない。

 雲が動いたのか、遠慮のない陽光が窓から差し込んできた。かーっと部屋が明るくなり、照らされた母の紫色の髪の毛はいっそうつやつやと煌めいて見えた。

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