エポケーしておけ

最近、というか、私の知る限りは数年前から、分断なんて言葉がよく使われていますね。確かトランプが大統領になったときにはカリフォルニアの知識階級だったか外国にニュースを送るメディアだったかが、あまりにも予想外な出来事としてニュースに挙げていたような記憶があります。

もっと最近で言うと、SDGsとかLGBT-Q(表記合ってる?)とかの法制度が議論されているとか。個人的には多様性も持続可能の件も社会のいうそれではないような気もするのですが、議論というかなんというかで、「多様性の尊重に反対するのか」みたいな妙なレッテル貼りが横行しています。

個人的には多様性とかって、確かに区別して分類して名前をつけると楽なのはわかるけれど、もっとグラデーションであって…みたいなことを考えたりしていますが。不思議なことに世の中はそうじゃないようで、正直真面目な議論をしている人はどこにいるんだとか思ったりしています。なんか文献とか記事あったら教えてください。

分断に次ぐ分断

たとえば前述のトランプ大統領当選事件(ド失礼)の件、私はあまり意外性を感じなかった記憶があります。まあアメリカの社会状況に関する知識があったかといえばそうでもなかったのですが、格差が広がりすぎて、学費や家族の生活費のために軍隊に入る「経済的徴兵制」の話はかなり当時から有名でしたから。

しかし、メディアはそれを知らなかったのです。いや、もちろん知らなかったわけはないはずなんですけれどね。報道している当人たちですから。ということは、知っていても見えていなかったわけです。潜在的知識でしかなかったということですね。じゃあなんでそういうことになってしまったのでしょうか。別にデータを出して、だからこうとかそんな話をするわけではないのですが、私自身はこれを「自分の正しさ」に拘泥してしまったということに尽きるんじゃないかと考えています。

社会一般における正しさではありません。自分の、もしくは自分の属するコミュニティにおける「正しさ」です。「」をつけているのも重要。よく外国人が両手をカニさんマークにしてるあれです。指をカニカニしてるあれです。一般的な正しさではなく、あくまでもその人の思う正しさ。

アメリカの話をしてわかりにくい部分もあったと思うので、日本の話をしましょう。

よくTwitterとかで見かけるような話ですが、「〇〇大学はFラン」とかいうあれありますよね。何を基準にしているかよくわからなかったりしますし、多分大学受験の偏差値なんでしょうけれど、偏差値はたかが偏差値であって、入った大学がその人間の価値になるということは決してないので、正直ネタで言っていたとしてもおもしろくないんですけれど。

では、実際にデータを見てみましょう。2020年の旺文社のデータがあります。とは言っても今回はそれをまとめたニュース記事を孫引きするわけですが。

大学進学率は2019年度で53.7%だったらしいです。ちなみにそのうち女性比率は44.3%とのことです。つまり、今の若者はざっくり半分ぐらいが大学に入学しているということになります。また、1971年度の大学進学率は19.4%とのことで、これまたざっくり捉えると、5人に1人が大学に進学していたということになり、多少の増減はあれど、基本的には増加傾向にあったらしいです。

つまり、大学に進学した人は私(1998年生まれ)の場合、同世代の半分であり、さらに偏差値が綺麗な正規分布となると仮定すると、偏差値50以上の大学に進学するということは同世代の学力的には上位25%に位置することとなります。偏差値50あたりの総数がどうしても多くなるせいでちょうど半分になる位置がわかりにくいのは一旦無視しておきます。許してください。

大学に行った同世代はなぜかそのことを認識していないように見えます。大学に行くということは決して(人数比で見たら)マジョリティとは言い切れないはずです。もちろん社会的には声の大きさとか権力とかそういう点でマジョリティだとは思いますが。高校までで就職した人のことをどのように捉えているのでしょうか。

つまり、このような言論はふざけたノリであったとしても、
・大学進学者の中の偏差値での分断
・高卒までで就職した人との間の分断
の2つの分断を引き起こしています。だからこういうタイプの煽るTwitterの投稿とかYouTuberとか嫌いなんですよね。身内だけなら勝手にしたらいいけど社会に持ち出すな。ちなみにここでは高専や短大、専門学校を入れるとややこしくなるんで入れていません。

もっというと、大学進学は別に学力要因だけで決まるものではありません。最近もニュースになっていましたね。生活保護を受けながら大学に通うことはできないらしいです。これがいいことか悪いことかは私は何とも言えませんし、もっと大前提として大卒の方が偉いって考える社会システムの問題だろうと思うわけですけれども、家庭環境や社会環境に関しても無視した社会的差別ということができると思っています。

そのことを理解している人はどうもかなり少なそうで、大学に行った人は大学に行った人で、高校までで就職した人は高校までで就職した人で、そうではない部分に属する人を見ていないような気がします。もちろんここまで話に出していないような、そもそも無戸籍で十分な義務教育を受けれていないとか、何かのきっかけで引きこもりになったとか、パターンを探せば無限にありますが。

エポケーしておけ

そうなると、社会問題について語るとかそういうことをするときには、自分の属している部分以外のことも語れるようになるために、全体的包括的に語れるようにするために、一旦立ち止まる、つまりエポケーする必要があります。

何やら見慣れない言葉が出てきましたね。大丈夫です。私も久々に頭に浮かんできた言葉ですし、そこまでめちゃくちゃ詳しいわけではありませんが、なんとなーく説明してみます。

哲学で、判断をいっさい差し控える態度。判断中止。

https://kotobank.jp/word/エポケー-37343

という意味らしいです。面倒なのでコトバンクで「エポケー」を調べてみてください。なんとなーくそんな意味なんだとわかってもらえれば大丈夫です。厳密な議論はしません。安心してください。

つまり、自分という主体は必ず「私」という社会的な立場から見た事象によって判断することになりますが、そのような判断は1つの社会的な立場でしかないために偏っています。つまり独断的、ドグマ的な判断をしているということになり、その状態ではたとえば正確な善悪の判断ができません。だから一旦、判断中止つまりエポケーをする必要があります。

「私」にとっては「正しい」ことも、「他者」から見たら「正しい」とは限らないということです。「」をつけている通りですが、私の正しさも他者の正しさも例外なく偏っています。面倒なことに。非常に面倒なことに。

だから、社会的なことを社会において発露する場合、自分の中で考えてそれだけで発するということをしてはいけません。俯瞰して「」の取り除いた絶対的な正しさに少しでも近づくことができるように、一度立ち止まって、つまりエポケーして、いろんな立場に目を向けて、そこからもう一度考える必要があるのです。

もちろんかなり難しいことですし、そんな意識したぐらいでできることではありません。というか私も全然できていません。なので、ちょっとでも近づくことができるように、一緒に頭を抱えていきましょう。

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