特別でなければ、オンリーワンでもない

悪口としての「セカイ系」

「セカイ系」という言葉を覚えている人はどれぐらいいるだろうか。初出は2002年らしいが、「1人語りの激しい、たかだか語り手自身の了解を『世界』という誇大な言葉で表すことに対する揶揄」(Wikipediaとかから何となく引用)という意味らしい。私はアニメや漫画などのオタク文化にはほとんど触れずに生きてきたので、具体的な作品名が頭に浮かぶわけではないが、ざっくり言うと、中間項なしで自らの感情を世界を包括する事象として扱うとか、そんな感じになるだろう。

たとえば中高生が、そんなセカイ系の考え方になるのは強く理解できる。というか、よく3歳とかで自他の区別がつくとか言ったりするが、少なくとも中高生のほとんどは自他の区別がついていない。それはもちろん社会的な意味であって、肉体的な部分では独立した存在であるとわかっているのだけれど。

ただ、わかってないのは大人にもかなりいる。というか、Twitterで言い争いをしている場合、少なくとも誰か1人はセカイ系だし、かく言う私もたまにセカイ系人間になっているなと思って自己嫌悪に陥ることもある。ただ、今回の話とは同じようで違う話。少なくとも本題ではない。

自分の悩みについて

昔も今も、中高生がいじめで自殺したというニュースがある。正直、加害者は校内のことであろうと司法で裁かれろよと思うのだけれど、司法で裁かれるから自殺しないのかというと、そういうことはない。そして、それに対して、最近は比較的見なくなってきたような気もするが、いじめが辛いなら逃げればいいのに、と言う人が一定数いる。確かにそのアドバイスはその通りだ、とは思うものの、一方で、んな無茶な、とも思う。

なぜなら、その自殺した子にとっては、見えている世界が学校という狭い世界でしかなく、外の、いじめられていない世界を想像することができないからだ。つまり、学校というのは、「セカイ」である。

わかりやすいように学校におけるいじめを例に挙げたが、それだけではない。ブラック企業に勤めること、家庭環境が苦しいこと、世の中の狭い世界あらゆる事象に当てはまる。

その場合、逃げたら何が見えるか、というと、「セカイ」ではなく、世界や世間と言われるようなものだ。もちろんあってはならないことだが、いじめられている人はたくさんいるし、ブラック労働をしている人も、毒親育ちも、数多くいる。それがいいか悪いかは別にして、自らの苦しみが自分特有のものではないとわかる。多寡は不明だが、少なくとも苦しんでいるのは自分だけではない、ということだけはわかる。

自分だけに特有の悩みではないとわかるのは意外と重要な要素で、その環境にだけいる場合に比べて、仲間が、共感者が増える。そうすると、ふと楽になる。実際、最近Twitterでバズっていたが、ストレートで四年生大学を卒業し、新卒入社した会社で3年以上働く人はたったの16%程度しかいないらしい。それ以外の84%は大なり小なり何かを抱えているし、16%に入ったとしてもほとんどの人は何かを抱えている。世の中意外と共感者は多くいる。

大きな世界の小さな自分として生きる

つまり、世界には多種多様な場所があって、人がいて、自分が持っているスキルや環境は、いい面も悪い面も大体誰か他の人も持っている属性で、だからたいてい、自分という存在はオリジナルでもオンリー1でも何でもない。もっと過激な言い方をすると、凡百のうちの1人に過ぎない。だから、セカイに籠らずに、世界に飛び出て行くことは人生にとってかなり重要だ。

だからってインドで自分探しの旅をする、みたいな大掛かりなことをしなければならないわけではない。ふと気になる場所に出かけてみたり、そこで出会った人と少し話し込んでみたり、小さなことを懲りずに続けるだけでいい。

そうやって自分を世界として扱わない、つまり自分の外部を広く見ることができるように自らを小さく保つ。そうすることで、他の多様な社会や人と出会ったときのしなやかさが生まれてくる。小さく保つ、というのはもちろん、政治とか宗教とかの大きな物語に流される凡百として生きるということでは決してない。というか、私自身がそんな1984年的な世界に住みたくない。

そうではなく、自分が楽になり、他者と生き、そして世界を面白がるために、そのためには世界の大きさに対峙する小さな自分でいなければならない、と考えている。

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