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僕とラジオ。

僕が初めて「ラジオ」を「ラジオ」として意識して聞きはじめたのは幼稚園生のころ。
家族で出かけた時。カーラジオだった。

聴いていたのは確か『FMヨコハマ』。
ドラえもんか何かのアニメのテーマソングが流れて「この曲知ってる」と、思いながらワクワクしながら聞いていた。
テレビで流れるのとも違う不思議な感覚があった。
大人たちが聴くような知らない音楽の中にいた曲は普段聴いている雰囲気とは違った空気を感じた。

それからラジオに妙に意識をするようになった。
家族で出かけるときはいつもFMヨコハマが流れていた。
昔は家の中でも流していた気がする。
FMヨコハマの名物レポーターのフジタ君の声が聴こえると高確率で出かけた先でたまたまやっていたイベントの話が始まる。
もしくは低確率でフジタ君が「藤田優一」を名乗る前の芸名の話。

話は逸れたが、それだけ小さい頃から生活の中にラジオがあった。

小学校高学年になり、僕はケータイを手にした。
僕らの世代でその歳でケータイを持っているのはほんの少しだけ早いだろうかな。

夕食前、ゲームにも飽きて暇そうにしている僕に母はラジオ番組にメッセージを送ったらどうだと言ってきた。
「読まれたらステッカー貰えるよ。」と。

母が勧めたのは『bayfm』の「bayline go!go!」(水曜日)
低学年の頃に見ていた「おはスタ!」の司会者、声を聞けば誰でもわかるバズーカ山寺(山寺宏一はラジオの時はこの芸名)と関根麻里がパーソナリティをしていた。

「芸能人に自分のメールを読んで貰えるっていいな。」と、思いメールを送った。
内容までは覚えてないけど年齢の珍しさからメールを読んでもらえた。
聴いていただけのラジオと「繋がった」のはこの瞬間だった。

それからというもの比較的に暇だった小学校時代はよくラジオにメールを送っていた。
井森美幸と流れ星がパーソナリティをしていたbayline go!go!金曜日はネタコーナーがあって、たくさん採用された。
クラスのお調子者だった僕が芸能人に「面白い」と、言われた。
自分の“面白さ”がしっかりと評価された。
面白さの評価の印である井森美幸の誰でも書けそうなサインが入ったステッカーはそれなりの枚数が今でも実家のどこかにある。

その後中学校にあがり、部活をするようになってからは投稿をメインでしていた夕方の帯番組は聞きにくくなりラジオからはすっかり遠ざかっていた。
AMの深夜放送に興味が出てきたが、音楽があまりかからない事からハマらなかった。
並行してラジオから流れる音楽も好きになっていたんだと思う。

AMを全く通過していない僕は“ラジオ好き”からガッカリとした目を向けられる事もなくはない。FMだけ好きな人間でもいいじゃないか。
(AMとFMの違いは各々調べてください。調べる気がない人に簡単に説明するとラーメンにおける家系か中華そばかみたいな違いです。どっちがどっちという話じゃないよ。)

それからは他にも色々と楽しみを見つけた僕は大学まではラジオには全く触れずに生活をする事になる。

高校時代は学校の先生になりたいとぼんやりと思いながらもなぜかメディア系の学科に受験。
学科では数学か社会の教員免許しか取れない事に気が付いた。
なれるなら国語の先生になりたかった僕はあっさりと教員の夢を捨て、次の目標を探した。

すると、さらにあっさりと次の目標ができた。
藤沢のコミュニティFM「レディオ湘南」で番組を作っていた放送部の存在を知る。
実際は5割飲み会3割スマブラ2割ラジオみたいな部活だった。
そこでこれまで聞き手だった僕は作り手となる。
部活の範疇ではあったけどそれなりに考えてそれなりに面白い番組が作れた時もあったと思う。
今思うとあまり自信はない。

そして、2年生の終わり頃、色々あって放送部にオファーをしてくれた大磯のコミュニティFM『湘南マジックウェイブ』で後に就職する制作会社と出会う。

この制作会社は新潟県のFM局『FM PORT』や山梨県のFM局『FM FUJI』、『文化放送』『ニッポン放送』などなどの番組を制作している。

広い地域に届く番組を作るには広い地域に届く番組づくりのマナーがあった。
これは別に「コミュニティだから」とか「県域だから」の優劣の話じゃない。
僕の考えとして局や放送範囲の規模による優劣はつけたくない。(聴いてる人からしたら欲しい情報やエンターテインメントをくれるのが1番嬉しいと思うのです。楽しさにはお金も範囲も関係ない。)

ただ、広い地域に届くラジオを作っていた人たちから教えてもらう技術はこれまで自分が知っていた技術とは違っていて、どんどん自分がラジオ全体に対してスキルアップしていたのがわかった。
それと同時に、自分が“面白い”と感じるモノの作り方は「やっぱりそんなに間違いじゃなかった」と、自信をつけることができた。

番組作り以外にもいっぱい人生のタメになる事を学んだし、たくさんの仲間もできた。チームを作る楽しさが本格的にわかったのはこのあたりだと思う。


大学卒業後はすぐにその制作会社に入り新潟県のFM局『FM PORT』でディレクターになった。

生放送と収録番組を1本ずつ担当した。

性質の違う2つの番組を経験できたのは本当に良かったと思う。
それぞれの番組のパーソナリティは担当していた期間が大きく違っていた。
初めてのレギュラーをもったパーソナリティと十何年レギュラーをもったパーソナリティ。

上手い表現が見つからないけど、
上に伸びていく成長と上に追いつくための成長を同時にしていたんだと思う。

さらに文化放送、ニッポン放送など、全く触れて来なかったAM局で他の番組もアシスタント的に担当させてもらいさらにいろんな刺激を受けた。

そんなこんなで番組作りの面白さ、そして苦悩を感じている1年目が終わろうとしている中、2020年3月31日FM PORTの閉局が発表される。

まだまだこれからだと言われつつ、自分でもそう思いながらも色々考えてラジオ制作を辞めて違う仕事を始める事を決意。

そして!ここからは未来の話。

僕自身が人と人をつなぐメディアになって悩みを聞いたり、一緒に笑ったり。

そんな風になろうかなって。

それでは2曲続けて思い出の曲を。

GOODWARP / BOY

ゴホウビ / ターミナル

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