人はいつ呪いから自由になるんだろう

この年末年始は実家に帰っていたのだが、お昼過ぎに何もすることがなかったのでボーっとテレビを眺めていた。そこで久々に、連日再放送していたドラマを観た。僕の下宿先にはテレビがないので、きちんとドラマを観るのはかれこれ4年ぶりかそこらになる。中学生や高校生のときは、なんのドラマを観るのかで父や妹と熾烈なチャンネル争いが繰り広げられていた(そして大概負けていた)が、僕と父しかいない実家では当時のような血を血で洗う争いが起こるはずもない。なんの心配もなく穏やかにコタツにくるまり、適当につけたドラマを観ていた。

そのときやっていたのは、『私の家政夫のナギサさん』というドラマ。
大手製薬会社の営業職であるアラサー女子・相原メイは、仕事をバリバリこなし若くしてチームリーダーに任命されるほど優秀だが、家事は致命的にできないため部屋はゴミ屋敷状態。そんな現状を見かねた妹から、50歳のハイスペックおじさん家政婦・ナギサさんをあてがわれ、散らかった部屋も心もきれいにしてもらう間に二人の関係は深まっていく、、、というお話。なんともベタな設定だが、テンポのいいラブコメディ作品でおもしろく、気づいたらすっかり見入ってしまっていた。

ナギサさんを観て「ドラマってこんなにおもしろかったっけ?」と思ってしまったせいで、ついつい他のドラマにも手が伸びてしまった。ナギサさんに続いてこのお正月に一気見してしまった作品が『逃げるは恥だが役に立つ』。放送当時のビッグウェーブに乗れずついに見ないまま4年が経ってしまったが、新春SPもやってることだしと思い、2016年放送の1話から新春SPまですべて観てしまった。おもしろかった。世間ではみくりや平匡のポリコレ的な発言が肯定的に受け入れられ話題になっているが、純粋にラブコメ作品としておもしろかったと思う。みくりと平匡がいろんな問題に合理的に対処しようとするからこそ映える感情が本当に尊いなと何度も思わされた。

ナギサさんと逃げ恥、2本のドラマを観ながら引っかかったワードがある。
両作品に出てきた、「呪い」という言葉だ。

ナギサさんでは、メイの妹のユイが「お母さん、お姉ちゃん(=メイ)は何でもできるからって、今でも呪いをかけ続けてるんです」と、ナギサさんに母子の拗れた信頼関係を打ち明けていたし、
逃げ恥では、ハイスペックイケメン・風見に好意を寄せる女性に対し、みくりの叔母の百合が「あなたも呪い(=若さ・美貌・異性にとって魅力的なことを至上価値とする考え)から自由になりなさい」と諭していた。

2つの「呪い」の指示対象は異なるけれど、どちらもすごく似たニュアンスを持ってると思う。両方とも、「卓越すること」「秀でること」を他者から期待されていると過敏に感じ、期待の実現のために努力を惜しまない、いや惜しまざるを得なくなっているという状態のことを言っているんじゃないだろうか。

ちょうど最近、フランスの社会学者であるP.ブルデューの著書『ディスタンクシオン』を読む機会があった。『ディスタンクシオン』では、社会で生きる私たちは絶えざる「象徴闘争」に巻き込まれているのだという。これはその場その場で設定された何らかの”賭け金”を巡る争いで、その争いに参加した人々は己の資本を駆使しながら、いかに自分が優れた存在であるかを競い合っているのだ。例えば、「美貌」が賭け金(=良いとされる価値みたいなもの)だとするならば、その美貌を競うゲームに参加した人たちは自分の持っているお金やセンスなんかの資本を利用して、いかに自分が美貌という点で他者より優れているかということを示しあう。ざっくりいうと、マウントを取り合っているといえる。

話を戻すと、先ほどの2作品に出てくる「呪い」は、「象徴闘争に巻き込まれひどく不自由な状態」と考えられなくもないと思う。2作品の文脈に即して言えば、「仕事も家事も完璧にできる強い女性」「若くて美しく、男にモテる女性」といった賭け金を巡る争いに追われ、そのレースで遅れを取る他者を否定するのみならず、「競争に勝てない自分自身を肯定してやることができない」ある種の病理といえないだろうか(偶々女性のケースになっているが、性別限らずさまざまな属性においてもあるあるなことだろう)。

では、そんな不自由さからどのようにすれば”自由”になれるのか。
日本の社会学者の岸政彦は、『ディスタンクシオン』に言及しながら「構造を理解することから自由が始まる」と言う。
自分が今、どんなレースに巻き込まれているのか。それを知ったうえで、「よし、がんばるぞ」と思って再度レースに参加していくのか、「違う考え方をしたほうが幸せじゃない?」と思ってレースから降りていくのか。呪いの姿を知ったうえで、再度どんな自分で在りたいのか、どんな人生を選び取りたいのかに思いを馳せることが、自由のはじまりなのだろう。

競争に参加することに良いも悪いもないのだと思う。
ただそれが、自分自身の自由の在り方なのかどうかに尽きるということなんだろうか。
自分がどんな構造に巻き込まれているかを知ることなしに、「ありのままの自分」というやつを肯定することは難しい。自分は常に他者の目にさらされているし、いつだって他者から呪いをささやかれる。

仮に呪いのない状態があり得ないとするならば、今の自分が自由になるための新たな魔法が必要なのかもしれない、と思う。

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