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放浪の天才画家山下清

 「放浪の天才画家」あるいは「昭和のゴッホ」とも呼ばれた山下清は1922年にこの世に生を受け、今年は存命ならば100歳。どこか懐かしさを感じさせる日本の原風景や名所を貼り絵で表し、人々の心を捉えた清の多彩な作品およそ190点が集結する大規模回顧展が開かれる。
 代表的な貼り絵に加えて、子ども時代の鉛筆画や後年の油彩、陶磁器、ペン画などを一気に紹介する「生誕100年 山下清展―百年目の大回想」が2023年6月24日(土)から9月10日(日)までSOMPO美術館(東京都新宿区西新宿1-26-1)で開催される。
 開館時間は午前10時から午後6時まで(最終入館は午後5時半まで)。休館日は月曜日、ただし7月17日は開館。観覧料は一般1400円、大学生1100円、高校生以下無料。問い合わせは050-5541-8600(ハローダイヤル)まで。

 日本各地を自由気ままに旅する生活を好んだ清は、驚異的な記憶力をもち、スケッチブックやメモを取らなくても、旅先で見た風景を細部まで正確に思い出すことができた。それが個性的な創作活動を生んだという。
 「とかく誤解が多い山下清。「裸の大将」もそのひとつだが、今まで山下清は様々な色眼鏡で見られてきた。中には芸術家としての山下清のイメージを歪めるものもあった。本展では、真の山下清を知っていただくため、このような情報を一度頭から外し、まっさらな状態で「真実の山下清」作品を堪能していただきたい」。(「公式図録」より)

 第1章「山下清の誕生ー昆虫そして絵との出会い」

 清は1922(大正11)年、東京・浅草に生まれた。3歳の時に高熱を伴う重い消化不良を患い、後遺症と思われる吃音いわゆるドモリが残った。
 小学校ではそのためにイジメられたため、独りで昆虫を採ったり、絵を描くことに楽しみを見出したのである。
 9歳の時に父が他界し、清は母の旧姓「山下」を名乗るようになる。
 次第に清の発達障害が目につくようになり、周囲からのイジメが激しくなったため、千葉県にある養護施設「八幡学園」に入園する。12歳だった。そこで生活する中で、清は画家としての才能を開花させることになる。

《蝶々》1934年、貼絵、山下清作品管理事務所、《ほたる》1934年、貼絵、山下清作品管理事務所
《蜂1》制作年不詳、ペン画、山下清作品管理事務所、《蜂2》制作年不詳、山下清作品管理事務所

 第2章「学園生活と放浪への旅立ち」

 八幡学園の授業でちぎり絵に出合った清は、独自の手法を確立する。1937(昭和12)年から数回にわたり、八幡学園の子どもたちの作品展が東京で開催されると、とりわけ清の貼り絵は注目を集めた。
 美術界の重鎮だった洋画家・安井曾太郎や梅原龍三郎らが貼り絵を高く評価する一方、弱冠17歳の清の天才性と作品をめぐって議論が巻き起こる。
 学園での生活に飽きた清は1940(昭和15)年、突然出奔して放浪を始めた。家々を訪ねて食べ物を乞い、駅舎の待合室で眠るという生活は時として過酷なものだったが、清はなにものにも縛られない自由を選んだ。
 その後10年以上日本各地を巡る中、時折自宅や学園に戻っては、驚異的な記憶力を頼りに旅先で見た風景を貼り絵で表現した。清は絵を描く道具などを持たずに出歩き、ほぼすべて記憶に頼って作品を制作した。
 1954(昭和29)年、清は放浪画家として新聞記事で大きく報道されて、広く知られるようになった。有名になったがために、清の自由気ままな旅は難しくなり、制作活動に専念するようになった。

《上野の地下鉄》1937年、貼絵、山下清作品管理事務所
《上野の東照宮》1939年、貼絵、山下清作品管理事務所
《観兵式》1937年、貼絵、山下清作品管理事務所
《神宮外苑》1950年、貼絵、山下清作品管理事務所
《自分の顔》1950年、貼絵、山下清作品管理事務所
《長岡の花火》1950年、貼絵、山下清作品管理事務所ー「僕は花火が大好きですが それはまだ子供だからだと言う人があります 大人は もう花火をそんなに 好かないものだが 子供は大好きだと聞いて 僕は まだ子供なのかもしれないと少し恥かしくなりました しかし 何と言われても花火はきれいなので 僕はこれからも夏になったら見物に行こうと思っています’」(山下清)
《桜島》1954年、貼絵、山下清作品管理事務所ー「何年か前に貼絵でつくったぼくの桜島はぼう線の竜ガ水のあたりからみた景色だ あれは冬の景色でまだ山には少し雪があった こんど鹿児島の展らん会にその絵をだしたので もし人がこれはぼくがうそをかいているといわれるとこまるので 先生と一しょにいってみた くrまでゆくのと歩くのとでは少しちがうし きり島は少し小さくかきすぎているので大へん気になった」(山下清)

 第3章「画家・山下清の始まりー多彩な芸術への試み」

 1956(昭和31)年、清の展覧会が東京・大丸百貨店で開催される。26日間で約80万人が来場した。
 その後も全国各地で展覧会が開催され、テレビや雑誌の取材が増えると、その話の内容や独特の話し方にも注目が集まり、人気となった。
 このころから、ペン画を多く制作するようになり、風景や季節の行事に取材した作品を残している。数は少ないものの、油彩にも着手した。

《群鶏》1960年、油彩、山下清作品管理事務所
《ぼけ》1951年、油彩、山下清作品管理事務所、《開聞岳》1956年、油彩、個人蔵
《ストリップ嬢》1956年、ペン画、山下清作品管理事務所ー「大阪で徳川夢声さんとはなしをしたとき これからは女のら体もかいてみなさいといわれましたが なかなかそういうモデルはみつかりませんでしたから こんどの東京見物ではら体の女の人をたくさんみたいとたのみました そこで浅草へいってカジノ座のストリップを見物しました あまり早くおどるのでスケッチはおいつけまっせんから がくやへ行ってかかせてもらったのです」(山下清)
《仙台の七夕》1956年、ペン画、山下清作品管理事務所、《秋田の竿灯》1957年、ペン画、山下清作品管理事務所
《トンネルのある風景》1956年、ペン画、山下清作品管理事務所
《腕ずもう》1956年、ペン画、山下清作品管理事務所
《東京オリンピック》1964年、ペン画、山下清作品管理事務所
《グラバー邸》1956年、貼絵、個人蔵

 第4章「ヨーロッパにて―清がみた風景」

 清は強く外国に行きたがった。1961(昭和36)年、39歳の時にヨーロッパを中心都する12か国を約40日間で巡る取材旅行へと旅立つ。
 各地の風景をスケッチブックに残した。
 街並みや風景はより写実的に捉えられている。

《ハイデルベルクの古城》1964年、貼絵、山下清作品管理事務所ー「ハイデルベルクという町へいったら この町にも古い城があって これはクロンボルグ城よりもずっと立派で 昔のドイツの方がデンマークより力があった証こだと思った 川の向う岸が山になっていて 山全体に高い塔と窓のたくさんある城が森のあいだからのぞいていて 城のれんがの色がとてもきれいだった ぼくは構図をとるのに苦労しながら 時間をかけてこの城をスケッチしたので 日本に帰ってからもっと大きな絵にしようと思ったが ぼくはヨーロッパにきてから古いものばかりスケッチしている」(山下清)
《パリのサクレクール寺院》1962年、貼絵、山下清作品管理事務所
《スイスの町》1963年、貼絵、山下清作品管理事務所
《パリのエッフェル塔》1961年、水彩画、山下清作品管理事務所ー「エッフェル塔の一番上にある展望台は 五百円ださなければいけないので 五百円もだすので 上までいった人はみんなゆっくり見物している エッフェル塔の上からながめたパリの町はとても大きく セーヌ川が遠くから流れてきて 遠くの方に流れていき 森やりっぱな建物があっちこっちに見え 小さな家もみんな屋根のいろがきれいです 一ばんいいのは パリの空は東京の空にくらべてずっとすんでいて 遠いところがどこまでもどこまでも見えるので まるで地球のまるいのがわかるような気がした」(山下清)
《コペンハーゲンの人魚像》1961年、水彩画、株式会社増田

 第5章「円熟期の創作活動」

 1956(昭和31)年以降、清は日本各地で展覧会が開催される際、その土地の窯元を訪ねて陶磁器の絵付けを行った。
 この頃には、目の不調のために細かい作業を擁する貼り絵制作を控え、ペン画などの手法を多く手がけた。
 清は新たなテーマとして「東海道五十三次」を選び、約4年間の取材を経て、ペン画に着手した。だが眼底出血により作業中断を余儀なくされ、およそ2年後の1971(昭和46)年、脳溢血により逝去。49歳だった。
 療養中も密かに制作を続けており「東海道五十三次」のペン画を完成させていたことが判明した。ペン画は散逸してしまったが、それを基にした版画によって、その全体像が今に伝えられている。

《東海道五十三次・ 富士(吉原)》制作年不詳、版画、山下清作品管理事務所
《長岡の花火(有田焼)》1957年、色絵大皿、株式会社増田
《東海道五十三次・ 横浜中央通り(横浜)》制作年不詳、版画、山下清作品管理事務所、《東海道五十三次・川崎大師(川崎)》制作年不詳、版画、山下清作品管理事務所

 

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