見出し画像

メイキング・オブ・ムナカタ

 板画家の棟方志功の大回顧展『生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』が2023年10月6日(金)より12月3日(日)まで東京国立近代美術館1F企画展ギャラリー(東京都千代田区北の丸公園3-1)で開催される。
 花井久穂(はない・ひさほ)主任研究員は「(今展は)棟方志功という芸術家の個人史であり、「版画(板画)」の冒険であり、そして大衆が「世界のムナカタ」を求めた昭和の歴史である」という。
 最初期から晩年まで、板画だけでは語りきれないマルチ・アーティスト、棟方志功の全容が紹介される。
 まずお目にかかれない作品ー高さ3メートル、幅1.8メートルの巨大な屏風《幾利壽當頭耶蘇十二使徒屏風》が約60年ぶりに公開される。
 日本のみならず国際的にも高い評価を得た板画家・棟方志功が、版木に顔がついてしまうのではないかという風にして版木から「姿」を彫り出している姿は多くの人々の記憶に刻み込まれている。
 棟方が居住し、あるいは創作の拠点とした青森、東京、富山の3つの地域は、棟方の芸術の形成に大きな影響を与えた。
 今回、棟方と富山、青森、東京の各地域との関わりを軸にして、板画(自作木版画の呼称)、倭画(やまとが=自筆肉筆画の呼称)、油画(あぶらが)といった様々な領域を横断する絶好の機会となる。
 また、本の装丁や挿絵、包装紙などの商業デザイン、映画・テレビ・ラジオ出演にいたる「メディア」を縦横無尽に駆け抜けた棟方の多岐にわたる活動を紹介し、棟方志功とはいかなる芸術家であったのかを再考する。
 掌サイズの絵葉書から、公共の建築空間の大壁画まで、「板画」の可能性を拡げ、様々なメディアを通じて「世界のムナカタ」が社会現象になるまでの道程ー「メイキング・オブ・ムナカタ」を辿る。

描き直される棟方像
 東京国立近代美術館が手掛ける棟方志功展としては今回が3回目。1回目は1959年に開かれ、ヴェネチア・ビエンナーレでの国際版画大賞受賞後の凱旋展示となった。2回目は1985年、棟方の没後10年目に開催され、版画作品のみ70点が揃う大規模展となった。
 「今回は、戦後も含めて棟方像を描き直しています。特に前回からの間に(棟方が戦中疎開した富山の)福光像がもっと立体的になる資料を提供して頂きました。福光がいかに重要だったか。疎開という特別な時間が戦後にどうつながっていったのかが分かりやすくなったと思います」と花井主任研究員は2023年10月5日(木)に開かれた記者発表会で話した。

東京国立近代美術館の花井久穂・主任研究員


〇「プロローグ 出発地・青森」ー1903年、青森市で鍛冶屋の息子として生まれた。原色による強烈なねぶたの色彩や、凧絵の表現に夢中になった。「絵というものが、不知不識のうちにわたくしの心体に近寄ってきていたのでしょう」と棟方は自伝「わだばゴッホになる」(日本経済新聞社)で回想した。独学で絵を描き始め、友人からゴッホの「向日葵」の口絵を見せてもらい、激しく感動した。その感動を棟方は書いた。「一目見てわたくしは、ガク然としました。何ということだ、絵とは何とすばらしいものだ、これがゴッホか、ゴッホというものか!わたくしは、むやみやたらに驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫びました」。1925年頃、20代初めに上京。当時の油彩作品「八甲田山麓図」「雪国風景図」などから、ポスト印象派の作品を丁寧に学んでいたことがうかがえる。

 (右)《八甲田山麓図》 1924年 青森県立美術館
 《東京弁稽古の図》 1961年 棟方志功記念館


〇第1章「東京の青森人」ー1928年、果樹園を25号に描いた「雅園」で、油彩による帝展入選という当初の目的を果たす。青森人とのネットワークを保ちながら、次第に油彩から版画へと活動の中心を移す。自然を抽象的・装飾的に把握・表現する独自のスタイルで、創作版画として評価された。さらに「大和し美し」を出品した1936年の国画会展で、棟方は民藝運動の主導者、柳宗悦の知遇を得る。柳は当時創立したばかりの日本民藝館で「大和し美し」という作品をさっそく購入した。棟方は柳に飛びつき抱きついた。「柳先生は「君、君、犬のような臭いがするョ。マアマア、いいよ、いいよ。金を渡すから、二三日したら家に来なさい」と言った(「わだばゴッホになる」)。柳の指導で、仏教や日本文化などへの理解を深めた。また世界的な陶芸家・河井寛次郎の知己を得て交友を深めていく。そして自ら「板画」と名付けた黒と白の木版画の可能性を切り開く傑作を生みだしていく。ところが戦時下の1945年4月には、戦火を逃れ富山県福光町に疎開する。代々木山谷の家は空襲で焼失、残していた多くの版木が失われた。

《大和し美し》 1936年 日本民藝館 
《観音経曼荼羅》 1938年 日本民藝館 
《二菩薩釈迦十大弟子》1939年(1948年改刻)東京国立近代美術館 
《基督の柵》 1956年 日本民藝館
《幾利壽當頌耶蘇十二使徒屏風》 1953年 五島美術館

〇第2章「暮らし・信仰・風土ー富山・福光」ー浄土真宗の信仰心が篤く、自然豊かな福光での暮らしは、棟方の仕事に新たな展開を生み出す。戦中戦後の資材不足で版木が入手困難な中、寺院の大きな襖絵制作や書の揮毫と言った筆の仕事で棟方は思う存分に腕をふるった。福光の暮らしは、棟方の明るく瑞々しい色彩感覚を生み出したといえよう。棟方の死の翌年に開かれた展覧会の図録に収められた長部日出雄の文章は次のようなものだー「私たちは今、世界地図や地球儀というものを持っている。だから、日本と呼ばれている国が、豆粒のような列島であり、津軽はまた、そのなかの芥子粒のような小部分であるのを知ることができるのだが、古代の人々にとっては、自分の住んでいる土地が、そのまま全世界であり、全宇宙であったのに違いない。棟方氏は現代に生きながら、いわばそうした古代人の感覚を持っていたからこそ、地方性の表層から風土の根源にまで遡行して、津軽を世界に化し、さらに宇宙と化すことができたのである」。

《華厳松》 1944年 躅飛山光徳寺

〇第3章「東京/青森の国際人」ーそして「世界のムナカタ」が誕生する。1952年、スイス・ルガノでの国際版画展で最高賞、これは日本版画が初めて世界で受けた賞だという。1955年はにブラジル・サンパウロで開かれた国際美術展に出品し最高賞、翌年にヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞した。1959年にはオランダ、フランス、スペイン、イタリア、スイスに旅行。棟方は長年の念願であったゴッホの墓を詣でることを実現させた。妻千哉子のマユズミで墓の拓本をとって、棟方は青森でゴッホの墓と形も大きさも同じにして「静眠埤」を作った。帰国した、棟方を待っていたのは建設ラッシュだった。青森県の新庁舎の壁画をはじめ、棟方の版画空間は「公(パブリック)」へとさらに拡大していく。青森をテーマとした作品制作が本格化するのは、棟方が名実ともに故郷に錦を飾った1960年代以降のこと。棟方は青森の祭礼や民間信仰にまつわる精神風土を主題に取り組むようになる。晩年、念願だったインド旅行を実現した棟方は、世界の美術品を下敷きにした一連のオマージュ作品を発表した。

谷崎潤一郎「鍵」の表紙
《弁天天妃の柵》 1965年(1974年摺) 棟方志功記念館
 《ホイットマン詩集抜粋の柵》[Prefections」1959年(1961年摺)棟方志功記念館
 《飛神の柵》1968年 棟方志功記念館


〇第4章「生き続けるムナカタ・イメージ」ーウェーブのかかった長髪、うつむきかげんで目を伏せる青森時代の棟方は、繊細な文学少年のようだった。一方、1956年頃の棟方はこちらに白い歯を向け、トレード。マークの丸眼鏡をかけて完璧な笑顔を輝かせている。「世界のムナカタ」は生涯にわたって膨大な自画像を残し、自叙伝を何冊も出版した。また、棟方は写真家たちにとって魅力的な被写体だった。強度の近視ゆえ、板に目と鼻と手を密着させて彫るムナカタのクローズアップ。土門拳は繰り返しこの角度から棟方を撮影した。棟方もまた写真好きであった。棟方はドラマや戯曲の主人公として繰り返し演じられている。
 1969年には青森市から初代の名誉市民賞を授与された。1970年、文化勲章受章。1975年9月13日、肝臓がんで逝去。72歳だった。同年11月、青森市民葬が行われた。

 

 会期中、一部作品に展示替えがある。
 前期は10月6日(金)から11月12日(日)。後期は11月14日(火)から12月3日(日)
 開館時間は午前9時半から午後5時、金曜・土曜は午後8時まで(入館は閉館の30分前まで)。休館日は月曜日(ただし10月9日は開館)、10月10日(火)。観覧料(当日料金)は一般1800円、大学生1200円、高校生700円。
 展覧会公式サイトは https://www.munakata-shiko2023.jp/ 
  問い合わせは050-5541-8600(ハローダイヤル)。


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?