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ビキニ被爆と三崎

 太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で1954年3月1日、米国は水爆実験を行い、それによって降り注いだ「死の灰」により日本の第五福竜丸などの船舶従業員たちが被爆したビキニ事件から70年になる。
 被ばくした乗組員の一人、大石又七(おおいし・またしち)さんは生前、人々のビキニ事件への関心が薄らいだことを嘆いていた。「放射能まぐろや放射能雨で日本中をパニックにさせたこの事件も、今ではすっかり忘れさられて「放射能マグロって何のこと」とその説明に大変な時代です」。
 原子爆弾、それに一皮むけば化ける原発の危険を指摘し続けた、その大石さんの意思を継ぎ、ビキニ事件によって放射能で汚染したマグロのことを心に刻もうと「マグロ塚」を建てようと署名を集めたグループがあった。
 その時は6000筆を超える署名が集まり、2019年3月、東京都議会に提出した。都議会選挙のため、その請願は廃案となったが、今再び、「「マグロ塚」を築地にと」訴えて署名活動を展開している。
 「現在、981名の署名が集まっています。前回と同じく6000近くの署名を集めて議会に提出したいと思っています」と「築地にマグロ塚を作る会」の及川佐(おいかわ・たすく)事務局長は、2024年2月25日(日)に都内で開かれたトークイベントで話した。

及川佐事務局長


 署名の有効性についての議論はあるものの「市民の意見を反映するということでは意味がある」し、「世論を喚起することで関心を持ってもらうことの大切さ」もあるので、引き続き署名を続けるという。
 「ビキニ被爆70年 三崎とビキニ事件 大石又七とマグロ塚を考える」と題したトークイベントが「夢の島マリーナ」(東京都江東区夢の島3-2-1)で行われた、その席での発言だ。
 1995年、築地市場が「都営地下鉄大江戸線工事に伴う「放射能汚染まぐろ骨」の発掘調査について」という通達を出した。翌年、大石又七さんが青島幸男東京都知事に築地市場への「マグロ塚」建立要請の手紙を出した。
 99年8月、築地市場正門脇にプレートが掲げられた。その後、石原慎太郎東京都知事は「マグロ塚」を第五福竜丸展示館脇の都立夢の島公園内に設置することを許可。だが、2016年、「「マグロ塚」を築地市場跡地に移設すること」の署名運動が始められた。
 それからの展開は上述の通りだ。


 さて、今回のトークイベントのトップバッターは森田喜一(もりた・きいち)さん。森田さんは伊豆大島に生まれたが、5歳の時に三崎に引っ越す。新聞記者を退職後は「ビキニ事件 三崎の記録」というプロジェクトに取り組み、96年に同名の本にまとめた。
 森田さんは自身の取材と当時の資料からビキニ事件の経緯について詳細に語った。ビキニ事件を引き起こした「ブラボー」は当時最大級の水爆だったと森田さんは言う。その後も米国による水爆実験は続き、第五福竜丸が被害を受けただけでなく、「相当な数の船が三崎港だけでも廃棄された」。

森田喜一さん


 森田さんによると、大石又七さんは家計を支えるために14歳からマグロ船に乗った。水揚げするために三崎港に入港した。大石さん1954年の初めころから第五福竜丸に乗り、3月1日、20歳の時に被害を受けた。
 「当時は船員に(放射能は)大変怖ろしいものだという認識はなかった。「太陽が西から昇った」みたいな会話が交わされたり、死の灰をなめた船員もいたという話もあったくらい」と森田さんは話した。
 当時の無線長の久保山愛吉さんは「本国に打電しないと個人的に判断して、やり取りを止めた。本国では第五福竜丸がいつ帰港するか分からなかった。船は静かに航行を続けて3月14日に港に入った」(森田さん)。
 そして、「「船員たちの調子がおかしい」「皮膚にただれが出来ている」と大騒ぎになりました」。
 それに船員の家に下宿していた読売新聞の記者が気づき、3月16日付朝刊に記事が出た。しかし、それは都内版のみだった。
 「ここからビキニ事件が始まりました」と森田さんはいう。「16日夕刊で全国紙がみな報道しました。同じ日、東京市場でも動きが始まりました。そして、三崎で騒ぎが始まった17日朝になると三崎の魚市場でマグロの暴落が始まったのです。事件を市民が初めて知ることになりました」。

活動を伝える写真パネル


 当時は三崎の魚市場の相場が全国の基準になっていたという。マグロの価格暴落だけでなく三崎の商店も大きなダメージを受けた。それは船が三崎を出る前に、必要なものをすべて三崎の売店で仕入れていたからだ。
 森田さんは「三崎は大きな渦に巻き込まれました」と話した。
 漁業関係者の受けた被害は20億円といわれた。ビキニ事件の翌年、日米両政府間で政治決着がなされ、補償金ではなく「慰謝料」が7億円支払われた。「三分の一しかお見舞い金が来なかったのです」。
 一定以上の汚染があるマグロはすべて廃棄された。1954年3月20日付「三崎港報」によると、当時は水爆反対よりも「マグロ安心」ということのほうが三崎ではウェイトが高かったという。
 森田さんの講演の後は休憩を挟んで、劇団もっきりやの杉浦久幸(すぎうら・ひさゆき)さんと門岡瞳(かどおか・ひとみ)さんによる「大石又七のマグロ塚への想い」という朗読があった。

杉浦久幸さんと門岡瞳さん


ーー食べられる命は食べる命と重なって命の循環がある。
ーー被爆した命には行き場がない。
ーー骨一本見つからなかった、抹殺されたマグロの命を忘れないため、ここにマグロ塚を建てることを決意した。
ーー今もまだ東京都の設置許可が下りるのを待っているのだ。
 また、同じ敷地内の東京都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島2-1-1夢の島公園内)では、廃船処分の後、夢の島に打ち捨てられて朽ち果てようとしていた第五福竜丸を保存しようと努力した人々をたどる企画展「保存の歩み55年 みんなの船、第五福竜丸」が3月24日(日)まで開催中。

 
現在はこの地にあるマグロ塚
 第五福竜丸展示館
第五福竜丸のエンジン 
久保山愛吉さんの言葉が刻まれた碑ー「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」

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