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ビートルズとドノヴァン

 【スピリチュアル・ビートルズ】英国のボブ・ディランと称され、ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの妻だったパティ・ボイドの妹ジェニーに恋をして歌を捧げたフォーク・シンガーがドノヴァンだ。
 ドノヴァンはビートルズがデビューしたころからのファンで、その数年後にはインドで生活を共にして、彼らの楽曲作りにも関わることになる。
 ドノヴァンは1946年、スコットランドのグラスゴーに生まれた。ジョージが一番若く1943年生まれだったビートルズより若干年下だ。
 1965年、デビューシングル「Catch the Wind」が全英シングルチャートで4位まで上昇、米ビルボードでも23位となり、注目を集める。翌年、「Sunshine Superman」が全米1位、「Mellow Yellow」も全米2位を記録。

Donovan 『Sunshine Superman』


 ドノヴァンはパティ・ボイドの妹でモデルのジェニーに一方的に思いを寄せた。叶わぬ恋だったが、ドノヴァンは彼女に「Jennifer Juniper」という曲を作って捧げた。ジェニーは驚いたそうだ。
 ビートルズとの交流のハイライトは何といっても1968年2月のインド北部のリシケシュ行きだろう。
 マハリシの僧院(アシュラム)があるリシケシュでドノヴァンはビートルズの4人と彼らの妻たち、女優のミア・ファロー、ビーチボーイズのマイク・ラブらと生活を共にする。

(前列左から)リンゴ、リンゴの妻モ―リーン、ポールの恋人ジェーン、ポール、ジョージ、ジョージの妻パティ、ジョンの妻シンシア、ジョン (中央後ろがマハリシ)


 ドノヴァンはビートルズと1965年に初めて会った。その時以来、ジョン・レノンに一番親近感を覚えていたという。「ジョンはよく絵を描き、二人で瞑想」したとドノヴァンはいう(アジョイ・ボース著、朝日順子訳「インドとビートルズ」青土社)。
 ドノヴァンはインドでジョンにギターのフィンガーピッキングスタイルを教えた。そのテクニックを使ってジョンが作ったのが「Julia」である。ジョンの母親の名前を冠したこの曲の歌詞をドノヴァンは手伝った。
 「・・・数行手伝ったー「貝殻のような瞳 海風のような笑み」。ジョンがとても愛していたルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」のような雰囲気にして、曲は素晴らしい「Julia」になった」。
 ポールはドノヴァンから直接学ぶことはなかったが、ドノヴァンがジョンに教えているのを聞いていて習得してしまったという。

「Julia」「I will」を手伝ったドノヴァン
 ドノヴァンはポールの「I will」を手助けしたらしい。二人とも記憶があいまいで食い違いがあるが、ドノヴァンは「コードの形を手伝ったかもしれない。その時期インドで書いた僕の曲から、イメージのヒントを与えたかもしれない」と話していた。
 ジョージからはインドの楽器タンブーラをもらったという。また、ジョージはドノヴァンの「The Hurdy Gardy Man」のヴァースの一つを書いてくれて、ドノヴァンはそのタンブーラを弾いた。
 ビートルズのインド行きの背景としてはいくつか挙げられよう。デビュー以来、走り続けた彼らが物質的には満たされたものの心の飢えを感じて精神探求の旅に出ようとしていたタイミングだったこと。
 ビートルズをデビュー前から支え、マネージャーとして、またよき「兄貴」だったブライアン・エプスタインを1967年夏に失ったことがある。もはやブライアンに頼れなくなったビートルズたちの不安。
 ちょうどその時期と重なるかのように登場したのが超越瞑想の指導者マハリシだった。インドでちょうど講義をするのを新聞で見つけたパティがジョージをはじめビートルズの面々に伝えたのが始まりだった。
 マスコミもおらずファンもおらず解き放たれたビートルズは持参したアコースティック・ギターで曲作りに励んだ。ドラッグ漬けから逃れたジョンは数年ぶりに自分の内から曲があふれ出て来たそうだ。
 これらの楽曲は40曲以上になり、『White Album』に収められることになる。前述の「Julia」「I will」もそうだ。

The Beatles 『White Album』


 また、マイク・ラブはポールが作っていた「Back in the USSR」に関して、ビーチボーイズの「California Girls」のように「モスクワのいかした姉ちゃん」や「ウクライナの女の子たち」が出てくるようにしたらどうかとアドバイスしたという。ポールはそれに従ったわけだ。
 マハリシが亡くなった翌年、2009年、ニューヨークでマハリシ追悼コンサート「Change begins within」が開かれた。ポール、リンゴをはじめ、ドノヴァンやシェリル・クロウらが参加した。
 トリにポールが登場し、リンゴが加わった。ハイライトはポールが歌った「Cosmically Conscious」という歌だろう。訳すと「宇宙意識」とでもいうのか、マハリシが瞑想の目的として「宇宙意識」に到達することだとしていた、それをモチーフに書かれた曲だ。
 昨年、ビートルズとインドとの関わりを描いた映画が2本、日本で上映された。「ザ・ビートルズ アンド インディア」と「ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド」である。
 前述の本の著者であるアジョイ・ボースがその著書を元にして自ら監督した映画が前者である。後者は偶然リシケシュでビートルズと遭遇した一人の青年、ポール・サルツマンが同地を再訪するドキュメンタリー映画だ。

 映画『The Beatles and India』
映画『Meeting the Beatles in India』


 瞑想は欧米のビジネスマンの間では一種の流行でもあるのに対して、日本では「数十年遅れた状態」だとマハリシ総合教育研究所の鈴木志津夫代表理事は話していた。理由はオウム真理教問題だという。
 そのため、ビートルズがマハリシの超越瞑想に取り組み、ポールもリンゴも今日でも瞑想していることが広く知られることは、日本において瞑想を普及させるのに大いに助けになるだろうと期待していた。

  
 
 

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