ポールと囚人たち
その男こそ誰であろう、元ビートルズのポール・マッカートニーだったから大変だ。日本、本国英国のみならず世界中にそのニュースが駆け巡った。
ビートルズ、そして彼らの歴史は長いものになったが、ご多聞に漏れずスキャンダルも少なくなかった。
中でも、ポールが日本で逮捕・収監されたことは、彼ほどの世界的なスーパースターにとっても、ぬぐい難い汚点となったはずだ。
しかし、獄中では思わぬ交流も生まれた。
ポールと極道との「約束」である。
1980年1月16日の午後3時ちょっと前、ポールはウィングスを率いて来日公演を行うべく、成田空港に到着したが、219グラムの大麻(当時の末端価格70万円)を所持していたため、大麻取締法違反、関税法違反で東京税関成田支署に現行犯逮捕された(80年1月17日付スポーツ ニッポン、サンケイ スポーツなど)。
ポールの犯した罪状は「大麻の密輸」。これは7年以下の懲役の可能性を意味していた。同日深夜、ポールは警視庁に留置された。9日間の塀の中の生活の始まりだった。
かつて警視庁本部の留置場は二階にあった。当時ポールが収容されていたのは「二房」とよばれる雑居房。
殺人の罪を犯し、この留置場にいた囚人にQさん(本では仮名瀧島祐介となっている)がいた。彼は「五房」の雑居房におり、両者は壁と廊下に隔てられていたが、距離にして数メートルという近くにいた(「獄中で聴いたイエスタデイ」鉄人社)。
82年に日本のロック専門誌「ロッキング・オン」に載った、ロンドンでの松村雄策氏によるインタビューで、ポールは語った。
「壁越しの友達がいたのさ。ぼくは日本語がダメで、彼は英語がダメだった。それでコミュニケーションする方法としては、お互いに知っている単語を叫びあうことだった。ぼくは『スズキ、カワサキ』と叫んだ。そうしたら、彼は『ジョニー・ウォーカー』と言った」。
大物ポールにプレッシャーはなかったのだろうか。やはり人間だ。「最初の三日間はとっても怖かった。ほとんど眠れなかった。眠れたとしてもひどい悪夢にうなされた」(2001年4月24日付英デイリー・メール紙)。
そんな中で毎日の楽しみは「体操の時間」と称される喫煙タイムだった、とポールはふりかえる。なぜなら、その時間は他の囚人たちと話すことが許されたからだ。
その際、通訳を務めたのが、学生運動の過激派メンバーだった。ポールは覚えていた。「一人英語がしゃべれる奴がいた。彼は学生で、反社会的なことで囚われていた。彼は大変頭がよく、かなりのマルクス主義者だった」。
ポールはQさんのことも鮮明に覚えていた。「殺人の罪で収監されていた暴力団員(gangster guy)もいた。彼の背中には大きな入れ墨があった」。
Qさんは15年の刑期を終え、現在は関東某所で肉体労働をしながら、畑仕事などをして暮らしているという。その彼が更生したきっかけは、ポールが獄中で歌ってくれた「イエスタデイ」を聴いたからだというのだ。
ポールが出所する前日の1月24日の夜7時ごろ、「私は二房のポールに向けて叫んだ。「ポール! “イエスタデイ”、プリーズ!」。
ポール「には私の声が聞こえたのだろう。「OK!」、そう叫んだ直後、床の板を叩きリズムをとり始めた。それから「イエスタデイ」を歌ってくれた。そのリズムたるや、最高だった。留置係の二人もその時ばかりは何も言わなかった。きっと彼らもポールの歌声を聴きたかったのだろう」。
ポールは「獄中でのアカペラ・コンサート」について次のように語った。「“スキヤキ・ソング”も歌ったよ。(彼は)演歌を歌った。それでぼくは“ベイビー・フェイス”を歌ったら、留置場中の人がみんな拍手をしてくれた」。
“スキヤキ・ソング”とは坂本九が唄った「上を向いて歩こう」の英語版で全米ナンバーワンヒットとなった。
ポールとQさんは「約束」をしていた。過激派学生を通してポールは次のような会話をした。「今度遊びに行っていいか」というQさんに対し、ポールの答えは「イエス」。「いいよ。ただしカタギになって遊びに来るのなら空港まで迎えに行くよ」。
ポールのこの言葉を信じ更生したQさん。
「獄中で聴いたイエスタデイ」というQさんの著書は、殺人を犯した元極道がポールと出会い、獄中で「イエスタデイ」を聴いたことによって人生が変わり、カタギになるまでを記した自伝――である。