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村上春樹とビートルズ

 村上春樹が人気作家として本格的にブレークするきっかけとなったのが1987年発表の長編小説「ノルウェイの森」である。
 タイトルはビートルズの1965年の作品から採られており、同曲を含め14曲ものビートルズナンバーが登場する。
 その後もビートルズの作品名を冠した短編を発表するなど、その「フリーク」ぶりを世に示してきた村上氏。
 村上氏が初めて聞いたビートルズは14歳くらいの頃、FEN(米軍放送)から流れてきた「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。
 2019年6月16日にFM東京で放送された「村上ラジオ」というDJ番組で村上氏自身が明らかにした。
 「これはすごいと一発で思った。響きがこれまでになかったものだった。ぼくのビートルズの第一印象は「これから新しい世界が始まるのだ」みたいなわくわくした気分だった」。
 ビートルズの65年のアルバム『ラバーソウル』以降の作品は特に「歌詞が深まり、コード進行が洗練されている」と村上氏は高く評価しているが、同日の放送ではあえてそのアルバム以前の作品にスポットライトを当てた。


 しかもその時期の数々のヒット曲のカバーを特集。
 初期のビートルズの作品には「大きく息を吸い込んで吐いたら、それがそのまますてきな曲になっていたみたいなナチュラルな感覚がある」という。
 番組で取り上げられたのは、チェット・アトキンスのギターをバックにスージー・ボックスが歌う「オール・マイ・ラビング」、マリアンヌ・フェイスフルの「イエスタデイ」など計10曲だった。
 村上氏は、若い頃は自分でビートルズのレコードを買ったことがなかったという。ビートルズは好きだったが、ラジオで頻繁にかかっていたからだ。
 だからラジオでかからないようなマイナーな曲は知らなかったし、彼らの音楽を腰を据えて聞くようになるのは大人になってからだったという。
 79年に「風の歌を聴け」でデビューした村上氏。


 専業作家になるまではジャズ喫茶を経営、その間はジャズばかり聴いていたという。80年代半ばに日本を離れヨーロッパで暮らすことになるが、その時に持っていったカセットテープの中にビートルズの『ホワイトアルバム』があり、ギリシアのスペッツェス島では毎日ウォークマンでそのテープを聴いていたという。「心に不思議なほど沁みてきた」。
 そしてその年の冬、ビートルズにインスパイアされて長編小説を書き始めるのだが、それがのちに大ヒットする「ノルウェイの森」だった。講談社によると、これまで日本では1千万部以上発行されている。
 小説は、ハンブルク空港に着陸しようとする飛行機の中から始まる。BGMとして流れてくるオーケストラの「ノルウェイの森」のメロディーに37歳の主人公ワタナベ君は混乱する。18年前につきあっていた二人の女性を思い出すからだ。自分の中あるいは外の「ゆがみ」にうまく対処できずにやんでしまった直子がそのうちの1人だった。
 「病気」で療養所に入ることになる直子が一番好きだったのが「ノルウェイの森」だった。のちの自死を選んだ直子。
 直子が亡くなった後、療養所を出て東京に来た直子のルームメイトだったレイコはワタナベ君の家を訪ね、二人で「お葬式」をする。レイコはギターで「ノルウェイの森」など14曲のビートルズナンバーなどを奏でた。
 その14曲とは:「ノルウェイの森」「ミッシェル」「ノーホエア・マン」「エリナー・リグビー」「ペニー・レイン」「64になったら」「フール・オン・ザ・ヒル」「ヘイ・ジュード」「ブラックバード」「ジュリア」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」。
 ここまでは『ラバーソウル』(65)以降の作品だ。それ以前の作品は:「アンド・アイ・ラブ・ハー」「イエスタデイ」の2曲だった。
 『ラバーソウル』制作時はちょうどビートルズがスターダムにのし上がったことで得たモノ失ったモノについて思いを巡らせ思索的になり始めた頃で、それ以降の作品は彼らが心の世界そして愛に目を向けるようになったことと深く関係していると思う。
 村上氏はのちにもビートルズの曲名、アルバム名を冠した短編小説も発表している。「文藝春秋」2013年12月号の「ドライブ・マイ・カー」と2014年1月号に掲載された「イエスタディ」である。
 後者では、風呂に入り「イエスタディ」に関西弁の歌詞をつけて歌う木樽という男が登場する。「昨日は/あしたのおとといで/おとといのあしたや」といった具合の関西弁が発表時には話題になった。
 しかし、この短編が収録された単行本が出るとオリジナルでは19行あった関西弁の歌詞が16行分削られていた。
 村上氏は「歌詞の改作について著作人代理人から「示唆的要望」を受けた」ためだと単行本のまえがきで説明した。


 さらに「文学界」2019年8月号は「ウィズ・ザ・ビートルズ」という短編を掲載した。同名タイトルのLPを大事に抱えて速足で歩いていた一人の女の子のことが記憶から消えなかった「僕」が主人公の物語だ。
 ビートルズの4人のモノクロ写真のハーフシャドーのジャケットが目に浮かぶような素敵な話であった。


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