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ビートルズ側近マルの本⑪

 【スピリチュアル・ビートルズ】ビートルズにとって1964年7月は最も多忙な時期のひとつだったといえよう。
 7月6日は映画「A Hard Day's Night」のプレミア上映がリバプールで予定されており、10日には映画関連のイベントが続くことになっていた。その日には同タイトルのLPとシングルがリリースされる。
 ローディのマル・エバンスとニール・アスピナールはプレミア上映に間に合うよう車を走らせていた。もう少しで到着というところでオイル漏れが起きた。修理が必要なのでマルはリバプールに、ニールは鉄道でロンドンに向かった。この数か月で初めてマルは一人になった。
 「家には君(妻リリィ)やゲイリーがいなくて空っぽで人気がない。笑いもぬくもりもなく、みじめだった。君たちが恋しい」とマルは書いた。
 7月12日にリリィとゲイリーは帰宅したが、そのため10日に行われたプレミア上映に二人は出席できなかった。
 地元でのプレミア上映は非常にエキサイティングだったとマルはのちに記した。空港からタウンホールまでの道では何千人もの人たちが叫んだりしていた。マルは自分がビートルズと関わることが出来たことを誇りに思っていた。タウンホールには地元の名士たちがあふれかえった。
 そんな混乱の中、マルは腕時計を失くしてしまった。それをジョージ・ハリスンにいうと、後日真新しい腕時計をマルに買ってくれたという。

リバプールのタウンホール


 「故郷のヒーロー」ポール・マッカートニーにとってはちょっと複雑なこともあった。ビートルズが地元を離れて今やロンドン一本やりになってしまい、自分たちのルーツを誇りに思っていないのではないかとリバプールでは疑う向きが増えているというのだ。
 ポールは「ぼくらはリバプールに戻ってこられてうれしい。僕らがリバプールを離れたことで裏切られたと感じている人たちや、ロンドンに住むべきでなかったと思っている人たちがいるという話を聞いたことがある。いつだって中傷をする人ってのはいるものさ」とコメントした。
 さらにポールには隠し子騒動が持ち上がっていた。19歳のアニタ・コクレーンは1963年から、彼女の赤ん坊の父親はポールだと主張しているのだ。マネージャーのブライアン・エプスタインの知るところになり、解決金として5000ポンド支払うことになった。
 しかし、アニタの母親のボーイフレンドがその金額に満足しなかった。そして隠し子問題を訴えるチラシを作ってリバプール中に貼って回った。マルはそれをはがして歩いた。のちにDNA検査で、ポールがその赤ん坊の父親ではないことが分かったのだが・・・
 ビートルズの生きる世界におけるマルの役割はいろいろな面で膨らんでいった。より細かになって、その仕事とはいわばオールラウンドのフィクサーであり文字通りのよろず屋になっていた。

リバプール


 7月12日、ビートルズは8月半ばまで続くミニ英国ツアーを開始した。その後には初めての本格的北米ツアーが予定されていた。
 ロンドンに戻ったマルはアリステア・テイラーと一緒に楽器店を回り、新しいギター・スタンド、ギターのリード、ドラム・スティックなどを調達。また、マルはポールの大型のベース・アンプも修理に出してきた。
 ビートルズがブラックプールのオペラハウスで演奏した後、8月16日、マルとデレク・テイラーは北米に向かって出発した。ビートルズがニール・アスピナールらとともにサンフランシスコに到着した19日には会場のカウパレスでの北米ツアー初日のステージはもう整えられていた。
 マルはビートルズのコンサート準備に汗を流すとともに他のアーティストのローディたちの手助けをすることもあった。そのため、みんなから人が好いと思われ、「ミスター・ナイス・ガイ」という称号をもらったぐらいだ。そう、他のローディたちとうまくやっていたからだ。
 リンゴは回想した。「初の本格的米ツアーは本当にすごかった。ぼくらのクルーはニールとマル、ブライアン、そしてデレクがプレス担当だった。ブライアンはマネージャーだけど何もしていなかった。ニールはぼくらにお茶を淹れてくれ、マルは楽器を修理してくれる。4人が一緒だった」。

カウパレス


 北米ツアーは33日間で24都市32公演の予定だった。ツアーが始まる前にエルビスとパーカー大佐から電報が届いた。
 マルは裕福な社交界の人たちのことを記録していて、実際そのころまでにサイン帳はキャバーンや63年のクリスマス・ショーで会ったミュージシャンなどのサインで一杯になっていた。
 その一人がデル・シャノンだった。マルもナイスガイである彼に参ってしまった一人だった。優秀な歌手でソングライターだった。ロスでは「リベラレ」やパット・ブーンとご家族に会った。パットはビートルズにサインをしてもらおうと4人が映った写真を持参していた。
 ニールの指摘では、マルもセレブ扱いされるようになっていた。それはビートルズのファン・クラブ冊子「Beatles Monthly」のおかげだった。機材を準備するマルは本当に人気者だった。みんなはマルをはやしたてたが、マルも彼らに話しかけてジョークを飛ばした。そのためか、マルは彼ら彼女たちを力づくで排除したりする必要がなかった。
 今回の北米ツアーのサポーティング・アクトはビル・ブラックのコンボ、エクサイターズ、ライチャス・ブラザース、デル・シャノンだった。

デル・シャノンのLP


 カウパレスで、ビートルズは夜9時20分にステージに現れた。きちんとプレスされた黒いスーツに身を包んだ彼らは29分間演奏した。途中2回中断した。ジェリー・ビーンズがステージに投げ入れられたからだ。
 演奏が終わるとビートルズの4人は楽器を残したままステージから出口に向かい、待たせてあった救急車に乗りこんだ。ニールはリムジンにいたが、すぐにファンに取り囲まれた。
 マルはホテルに戻ると、英「デイリー・エクスプレス紙」の西海岸特派員アイボー・デイビスがいた。アイボーは後に語っていた「ぼくは6フィートの頑強な黒縁メガネの男マル・エバンスと、細くて少年っぽく見えファブ4の親戚かと思わせるような風体のニール・アスピナールと握手をした」。
 マイアミのラジオ局WFUNの記者ラリー・カーンは、ビートルズの最初の2回の北米ツアーのカバーを許された唯一の放送ジャーナリストだった。
 アメリカでもビートルズはオーストラリア以来そのリスクがあったセックス・スキャンダルをギリギリで回避することになる。ラスベガスでの滞在先サハラホテルの彼らの部屋にはスロットマシーンがあった。
 デイビスが気づくことになるのは、ビートルズファンの娘さんよりも4人に会いたいのは実は彼女たちの母親たちだったということだ。母親たちは娘たちを4人に会わせる「パスポート」を得るかのようにふるまっていた。
 ラスベガスでのショーの後のパーティの場には、ジョージア州から来た15歳のステーラと友達のアーリーンがいた。ステーラの母親はジョージと一緒に出掛け、スイートではジョンに追いかけまわされた。そのうちにジョージアっ娘たちはアルコールのせいもあって寝てしまった。
 本当のトラブルはこの先に待っていた。マルはラリー・カーンの部屋をノックして、彼に服を着て、ジャケットにネクタイもするように命じた。寝ぼけ眼でラリーは「どうして俺が?」と言った。マルは「君は記者だから信用できそうだ」と答えた。

ラスベガスのサハラホテル


 マルとカーンは14歳の双子の娘の母親のところに行った。みんなバーティに参加していたのだ。母親はカジノで遊んだ後、ビートルズのもとに行きたいとせがんだそうだ。彼女は、娘たちが監禁されていると当局に電話をして、2人の刑事がやって来た。そこにはニールとデレクもいた。
 刑事はジョンとブライアンから事情聴取をした。デレクはそこに割って入り、娘たちがビートルズのパーティに参加することをその母親が許可していたのだと刑事たちに説明した。
 娘2人は刑事たちに訴えた。ビートルズのスイートにジョンと一緒にいたけれど、ずっと紳士だったと。何ら法律を犯していないことに満足した刑事たちは帰って行った。
 ブライアンは母親にわずかながらもおカネを渡した。ジョンは大したことがないと無視を決め込んでいた。成り行きによってはセックススキャンダルとなり、ラスベガス警察からレイプの疑いをかけられていた可能性に、ジョンは盲目であった。


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