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命日に松田優作を語る

 11月6日は松田優作さんの命日だ。
 34回目の命日となる2023年11月6日(月)、優作さんと名曲「灰色の街」を共作をするなど交友があった横浜三大ギタリストの一人・李世福さんが横浜中華街のイベントスペース「李世福のアトリエ」(横浜市中区山下町232金太ハイツ)で思い出を語った。
 トークイベントは李さんのアコースティックギターによる「灰色の街」で始まった。これは李さんが作曲し、優作さんが歌詞を書いた作品だ。

李世福さん

 李さんが優作さんを知ったのは1977(昭和52)年公開の映画からだだ。「女友達と渋谷で待ち合わせて映画を観に行った。その映画が「人間の証明」だったんです。知り合いだったジョー山中さんも出ていた」。
 「出演していた松田優作さんの名前も顔も俺は初めて見たんだよね。世間ではもう有名だったけれど、俺は新人の俳優さんだと思って見ていた」。


 李さんが次に優作さんを見たのはテレビでだ。「自宅のテレビで優作さんがコーちゃん(ゴールデン・カップスのギタリスト・エディ藩さん)と出ていたんだ。優作さんがコーちゃんと並んでコメントして演奏した。俺は「へぇ、コーちゃんが松田優作と出演してるんだぁ」と思ったよ」。
 そして李さんはエディさんを通じて優作さんと直接会うことになる。
 「俺の兄貴の、中華街の喫茶店にエディさんが来て、「福ちゃん(李さん)、松田優作知ってる?」と言われ、俺は「知ってるよ」って話した」。
 「そしたら、エディさんが「優作からね、李世福を知っているかって聞かれたから、「俺の後輩だよ」と伝えたら、紹介してくれと言われたんだよ。福ちゃん、今度優作と会わせるからさ」。俺も「うん、分かった」と」。

李世福と松田優作の出会い
 約3週間後、李さんがエディさんの中華料理店の前で「ちょっと来てくれ」と言われた。優作さんが来ているという。「今、サウナに行っているから、俺のところに夜8時ごろまた来てくれ」とエディさんが言った。
 李さんは再びエディさんのところに行き、北京飯店の上のサウナに向かった。到着すると奥さんの美由紀さんがいて、エディさんが「優作は?」と聞くと、「もう出てくるから」との答えだった。
 すると優作さんは白いバスタオルを巻いて出てきた。エディさんは「優作、李世福だよ」。そうしたら「李さん、よろしく」と握手をした。
 優作さんは腹が減ったと言ったのでエディさんが寿司屋に誘った。優作さんは着替えをして、みんなでエディさんの家に向かった。それからみんなで知り合いの、女の子が2,3人いるパブに行った。
 すると「何かやろうよ」となって座って飲みながら3コードで演奏を初めると優作さんが「李もやれよ」となった。優作さんは最初は「李さん」だったがあとはもう「李」だったという。
 李さんはいう「適当にやったつもりだったけれど、優作さんと美由紀さんは「李、サイコーじゃん」と喜んでくれた。そして帰り際、優作さんは「東京に来たら俺に電話くれよ」といって紙に電話番号を書いてくれた。
 それから2,3週間後、李さんは優作さんの家に行った。渋谷のジャンジャンで用事を終えた後、行った。下北沢だった。アーモンド・クッキーとレコーディングを録音したカセットテープを持っていった。

ニューイヤーロックフェスティバル
 シャワーから出てきたばっかりの優作さんは頭を乾かしながら、娘さんにクッキーをポンと渡した。優作さんは電気を消してほぼ真っ暗になった中で、李さんがテープに録音した5曲を聞いた。終わると優作さんは「李、一曲目最高じゃん。あれニューイヤーでやろうよ」と言った。
 ニューイヤーロックフェスティバルは大みそかに開かれていた。李さんのギャラはリハ2回含めて「5並び」といわれたという。つまり5万円だった。リハのスタジオに原田芳雄さんが来たこともあった。
 李さんはエディさんらと一緒にリハ。本番でやる予定の「迷い鳥」や「ホンキートークブルース」といった曲を練習した。「迷い鳥」という歌は李さんの作詞作曲作品だったが、のちに「灰色の街」に生まれ変わる。
 12月31日はニュー・イヤー・ロック・フェスの本番。李さんは優作さんから生放送であること、出番は深夜2時からと伝えられた。李さんのほかには、もんた&ブラザーズ、シーナ&ロケッツ、ジョー山中らが出演した。
 「会場の浅草国際劇場は人があふれんばかりだった。ステージで(客席から)足を引っ張られそうなぐらいで、ギリギリまで行ったらやばいって感じた」と李さんはその日の盛り上がりぶりを回想した。
 次に李さんが優作さんと会うのは年があけた1月3日のことだった。渋谷のジャンジャンで李さんがライブをやるので優作さんを誘ったのだ。「ロングコートに真っ黒なサングラスをして(ステージを)ジーっと見ていた。終わって楽屋に戻ると優作さんからのメッセージで「今日はこのまま帰るので、近いうちに電話してください」とあった」。
 電話すると優作さんは「李、また会いたいんだ」。行ったら優作さんは「あれ(「迷い鳥」)、レコードになってる?俺に作詞やらせろよ」という。優作さんの作詞は早かった。というのもそれから1か月ぐらいでもうレコーディングしていたからと李さんは話した。
 名曲「灰色の街」誕生である。

 ここで李さんのトークは一休み。オープニングに引き続き、李さんはアコギを抱えて「BAY CITY BLUES」を披露した。
 休憩を挟んでの第2部のスタートは李さんが歌う「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」だった。これはエディさんの名曲で、横浜のライブハウスではそれこそ毎晩のようにどこかしらで演奏されている歌だ。
 再びトークに入った。「あの人(優作さん)、横浜がすごく好きなんだね。けっこうコーヒーを飲みにぶらっと来てたりして。ある時、プライベートでぶらっと来た。李さんに会うと優作さんは「おー李、久しぶり」って言って李さんをハグしたこともあった。
 そして優作さんは引っ越しをしたことを伝え、遊びに来てほしいと李さんに告げた。遊びに行くと、今度はマンションで、優作さんは「今度こういうバンドでやってるんだという。それがエックスっていうのだった。
 「「灰色の街」や「BAY CITY BLUES」は演奏がこれまでと全然違っちゃって、原田芳雄さんは「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」をやるようになった。その日は(内田)裕也さんと会うというので誘われた」と李さん。

優作を「松田さん」と呼んでいた内田裕也
 確か寿司屋だったと思うと李さんはいう。「先に裕也さんが来ていて、3人で並んで話していた。みんな「優作さん」っていうけれど、裕也さんだけは「松田さん」っていうんです。そういう人は裕也さん以外にはいなかった。なんでだかはわからないけれど」。
 他の人が近づけないような「熱い雰囲気」になる中、裕也さんは突然「李、今度ニューイヤーも出ろよ」という。「出ますよ」と答えると話がトントン拍子で進んだ。李さんは「話が来たというのは求められているということだから喜んで出ることにした。それから必ず毎年行くことになって、20年くらい続けました」と語った。


 ニューイヤーロックフェスティバルは、内田裕也さんが1973年に始め毎年行われていた年越しライブのことだ。
 さて、その年のニューイヤーに李さんが行くと、まず力也さんがいて「李、よう来た」と話しかけてきて、それから裕也さんのところに挨拶に行った。鮎川誠さんやシーナさんなど出演者がみんないた。「当時は40-50グループぐらいいたと思う。早い時間から朝方までだから。最初はパルコ劇場で、途中、花道のある浅草のキャバレーでやったこともあった」。
 「時間帯が同じ枠だった原田芳雄さんから「李さん、俺にも曲を作ってくれよ」と頼まれて3曲ぐらい作った。そのうちの1曲を特に気に入ってくれて毎回ライブでやってくれました」と李さんはいう。
 ある原田芳雄さんのライブでは観客の中から藤竜也さんがステージに呼ばれて「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」を原田さんの歌と藤さんの語りで披露したこともあったという。藤さんは自分でもその曲をやっていたのだ。
 李さんは原田さんのバンドのコンサートにゲスト出演したこともあった。また、原田さんの家に行ったこともあった。原田さんを「兄貴」と慕う優作さんの家のまさに隣が原田さんの家だったのだ。

タバコも道具立ての一つ
 李さんは普段はお酒は飲まない。しかし、優作さんらと新宿ゴールデン街に繰り出したこともあった。「やけに小さい店がたくさんあるところだなって思いました。その時は原田美枝子さんや石橋凌さん、二人が結婚する前だったけど、いて、あとは宇崎(竜童)さんとかみんないました」。
 原田さんは早くにタバコを止めた。一方、優作さんはヘビースモーカーではなく、タバコがあってもなくてもよいようで、「タバコも一つの絵になるということかもしれなくて、急にミスタースリムみたいのを吸ったり、いろんなタバコを吸っていて、これでないとだめというのはなかった」。
 ここでタバコつながりということで、李さんは「ヘビードリンカー・ヘビースモーカー」という歌を、「二人のために」と言ってから、歌った。
 次に李さんは自分の「芥子の花」という歌の話に入った。カセットテープを持参して優作さんに聞かせると、この歌にピンときたらしくて「これなんですか」って言ったという。「この曲が終わると優作さんはワーッって笑い始めた。笑って「李、レコーディングがあるから頼むぜ」って」。
 「レコーディングに行ってみると、エンジニアがいるところに座って注文をつけたりしていた。飯をどうしますかと言われて、優作さんは「五目そばと小さなライス」って10人ぐらい全員同じものを頼んで、レコーディングの3,4日、毎日同じ五目そばとライスだった。その印象が強くて」。

87年からの優作さんのツアー
 1987年から優作さんのツアーに李さんはギタリストとして参加もした。大阪、名古屋、つくば、新宿厚生年金会館、横浜、東京のロマーニッシェス・カフェを回った。6時くらいに開演でおよそ2時間のライブだった。
 フジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」に一緒に出演したこともあった。李さんは言う「よくテレビで見ていたけど、雰囲気があって、実際行ってみると「ああ、こうなっていたんだな」って」。
 ツアーが終わった。「それから俺はお会いしてないんだよね。優作さんもそれからは映画に専念していた。あの人は友だちは友だち、仕事は仕事という人で、一緒くたにしない人だった」と李さん。
 この日のトークショーは再びの「灰色の街」で締めくくられた。

(音楽ライター前田健人さんのフェイスブックに掲載されている李世福さんとのやりとりの記事も参考にさせていただいた)


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