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タブ純が加藤登紀子に聞く

 歌手にしてコメディアンのタブレット純さんが赤いドレスで頭に赤いバラをつけ「百万本のバラ」を歌いながら登場した。待ちに待ったおよそ70人は拍手したり、微笑んだりして暖かく迎えた。
 2025年10月25日(水)によみうりカルチャー荻窪で開かれた「タブレット純が聞く加藤登紀子の世界」はこうして始まった。
 タブレット純さんが歌い終わるや、いきなり加藤登紀子さんが現れた。ブルー系の衣装に身を包んだ登紀子さんの登場に沸いた。
 登紀子さんが「昨年末のほろ酔いコンサートにタブレット純さんにゲストで来ていただいて、今年もリクエストが多くて、関係が深まっているところです。でも残念ながら問題は起こりません」と話すと笑いが起こった。

タブレット純さんと加藤登紀子さん

ジョージアで歌いたかった「百万本のバラ」
 まず、登紀子さんが10月半ばにジョージア(グルジア)を訪問してコンサートを開いた話になった。「古い歴史を持ち、本当におとぎ話の中にいるような美しい所、ムツヘタ、トビリシなどでコンサートを開きました」。
 「百万本のバラ」の主人公である貧しい画家はジョージア出身のニコ・ピロスマニである。登紀子さんは説明した。「ピロスマニは1918年に亡くなりました。なかなか仕事もうまく行かず、ワインを飲んで酔っ払っても生き抜いて、最後は流行り病にかかったのです」。
 「カネがなく、住んでいた倉庫のような所の近くに倒れていたのを、人が問いかけると「ぼくはこれから死にます」と言って亡くなったのです。それがちょうど復活祭の日だったという伝説が残っています」。

ピロスマニの作品


 「それが今や英雄です。ピカソが「私の絵はジョージアに要らない。ピロスマニがいるから」と話したぐらいです。その後、絵は大ヒットします」。
 「そして、ひとつの恋を表現するのに広場一杯のバラを荷車を引いて恋をした相手に持っていって贈ったという実話が「百万本のバラ」という歌に繋がっていきました」と登紀子さんは語った。
 「そういうエピソードをもとに(アンドレイ・)ボズネセンスキーが(ロシア語の)「百万本のバラ」にしました。もともとはラトビアで生まれた子守唄です。ロシア語に翻訳しないと放送出来なかったので翻訳し、ロシアで大ヒットしたのです。ソ連が崩壊する頃、ラトビアやジョージアといったソ連の辺境の地でも大ヒットしました」。

ウクライナで今歌えない作品
 「普通、ソ連の歌っていうとみんな嫌うのですが、この歌は辺境の地で愛された・・・でもウクライナでは今、この歌は歌えないと思います」。
 登紀子さんはナターシャ・グジーという在日ウクライナ人の言葉を紹介したー「私たちは今「百万本のバラ」は歌えない。ロシアに関わりのある歌は歌えないという法律がウクライナに出来たのです」。
 この歌がヒットしているさなか、ちょうど90年代初め、ラトビアやウクライナなどは独立していった。その独立運動の先頭に立っていたのが、「百万本のバラ」の作曲者であるアーラ・プガチョワだったという。


 登紀子さんは言った。「それでもあなたたちはこの歌を捨てるのですか、と(ジョージアの人に)言って、この歌を歌いに来たのですと話したのです。そんなことでこの歌を捨ててはいけないって言いました」。
 「この歌をどうしてもジョージアで歌いたかった。コロナで3年延びて、こういう時期に行くことになったのも運命かもしれませんね・・・ジョージアを旅立つ日にちょうどイスラエルとパレスチナの紛争が起こりました。もし一週間前に起きていたら、この旅行は出来なかったかもしれません」。

キーワードは「ハルビン」
 運命というのはあざなえる縄のごとくである。登紀子さんは自分が生まれた「ハルビン」をキーワードに運命の不思議さについて話した。
 登紀子さんによると、英語でメリー・ホプキンが歌ったことで広く知られる「悲しき天使」という歌は、ロシア革命後のネップ(NEP)と呼ばれた開放政策の時期に素晴らしい歌がたくさん生まれましたが、その中の一つ。
 「ソ連から亡命してこの歌を世界に広めた一人が放浪歌手のベルジンスキーで、彼はジョージア人の女優に恋をして結婚していたのですが、この女優はハルビン生まれだったのです」と登紀子さん。
 そして、登紀子さんは自分の父親がハルビン学院で学生として学んだこと、ハルビンというのは辺境からあるいは亡命者たちが集まった場所だったことを説明した。そして戦争末期、登紀子さんの母親もソ連がやって来た混乱の中、「難民」として生き抜いたと話した。
 「ジョージアで歌った「百万本のバラ」という歌がハルビンという一つのキーワードで収斂するというのはすごいことだと思います」。

「小さな花びらの思い出」
 それから、タブレット純さんが持参した登紀子さんのレコードコレクションをかけながらの思い出話となった。
 タブレット純さんは登紀子さんのシングル曲「小さな花びらの思い出」という作品が「特に好きで、それがご縁になったのです」と話した。登紀子さんが23歳だった時の作品で、レコードをかけた。
 登紀子さんは「これ大好きな歌だったんですよ。だけどB面だったし、ステージで歌うことはなかったのに、どうして知ってるのってびっくりしました。それで深い仲になったの」と言うとどっと笑いが起こった。


 この作品は、それまでCMソングばかりを手がけていた小林亜星さんが歌謡曲もということで作られたのだという。簡単なコードだったこともあり、登紀子さんはギターを持たされて、そこからシンガー・ソングライターとしてギターを弾くきっかけになった曲となった。
 タブレット純さんは30数年中古レコードを集めているが、「このレコードは見たことがありません。よっぽど売れなかったのでは・・・」。
 次に話題にあがったのは、登紀子さんが新人賞を獲る前に出した演歌「恋の別れ道」。それから「積木の箱」については「これは全く覚えていない。レコーディング以外では一回も歌ったことがない」(登紀子さん)。
 ヒットを狙って提供された、作詞岩谷時子、作曲筒美京平の「冷たく捨てて」について登紀子さんは「大嫌いだったの。この歌を歌うくらいなら歌手を辞めてもいいと思ったぐらい」。
 「でもレコーディングの前にすぎやまこういち先生にそのことを言うと「それはまずいよ。相手がすごすぎる、これを蹴っ飛ばしたら大変だよ」と言われました」。大阪のバーで歌っていたら、聞いていた高石ともやさんのマネージャーから「お前何やってんだ。そんな歌、歌ってていいのか」と言われ、かっときた登紀子さんは「36発殴ってしまった」という。

「ひとり寝の子守唄」に藤本敏夫が一言
 そして「ひとり寝の子守唄」。そんなことがあって、高石さんのマネージャーから「じゃあ違う場を作らなきゃいけないね」と言われて、高石さんと一緒に京都大学のキャンパスで初めて「ひとり寝の子守唄」を歌った。
 「それを観た新聞記者から「あれはいいね」と褒められたのです」。そして「1969年6月16日にレコーディングしましたが、その日に藤本敏夫が出所したのです」と登紀子さんは回想した。
 「ひとり寝の子守唄」は藤本さんが独房でトイレ兼イスから毎日現れるネズミの話をしてくれたのを参考に登紀子さんが書いた歌。この歌を初めて聞いた藤本さんは一言「何て寂しい歌だ」と言ったという。


 こうして約1時間半の加藤登紀子さんとタブレット純さんのトークイベントは幕を閉じたのであった。
  
 
 
 
 

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