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愛しかなし

岸田奈美さんのこちらの記事を読んでの気持ち。
しばらくしたら元の記事は跡形もなく爆散してしまうかもしれないので。


向田邦子さんの「ゆでたまご」と、岸田さんの記事を読んで思い出したのは、「愛し」と書いて「かなし」と読むことだった。
古語では「かわいい、いとおしい」という字面通りの意味と、「心がひかれる、心にしみておもい」という意味があるらしい。
高校では課外でしか古典をやらなかったのだけど、なんとなく覚えていた「かなし」。

向田邦子さんは岸田さんのいう「愛」は、わたしには「かなし」に近いように感じられるのだ。

ちょっといやな人にも、すきな人にもうまく距離を取れなくていつも悲しい気持ちになる。
何かをしても相手に届いていないどころか迷惑ではないかと、何かをしてもらっては上手く受け取れず。
そこに仕事の忙しさなんかが重なるとひとりでわんわん泣いてしまう。

自分でいうのもなんだが、私は会社での評価はおおむね「穏やかで良い人」だ。
だって、誰も傷つけたくないし、傷つきたくない。
戦略的に「穏やかで優しく」振る舞っているだけなのだが、そんな自分があまり好きではない。
「穏やかで優しく」などないから。
自分で認識している「本来の自分」とのギャップを、偽善と評価していたものの、やらない善よりやる偽善と納得しているつもりだった。
だけど、全てを騙しているようなモヤモヤしている気持ちをうまく表せなくて涙になるのだ。

ゆでたまごの愛のはなしと、「かなし」ということばでわたしのことばにならない感情に名前がついた気がしている。
たぶんわたしは、いろんな物事をあいしている。
いやな人も、すきな人も等しくあいしたい。
愛とは柔らかで温かいものだと思っていたけれど、ちょっとかなしくて切なくてどうしようもない感情も、きっと愛だ。

愛とはかなしいものだ。愛とはどうしようもないものだ。

そう思ったとき、ちょっとだけ救われた。
苦しい気持ちもかなしい気持ちも「仕方がないやつだな」と肯定できた。
「自分はあいされない」という亡霊もちょっとだけ成仏した。まだめっちゃ残ってるけど、弔っていける気がした。

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