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コロナ禍在宅看取り13(余命3ヶ月の自宅での日々)

ホスピスから自宅に戻ることは、積極的な治療をやめて余命を受け入れる選択をしたということです。

抗がん剤をやめたら3ヶ月で死んでしまうなんて思えない程、帰宅した母は元気そうに見えていました。

週に2回ほど来てくれる訪問看護の方々とも、楽しそうに会話し、いつもありがとう、ありがとうと感謝の言葉を口にしていました。
亡くなった後に先生があんなにフェントステープを貼っていたのに、寝ている時間が少なく、よく会話できていたと思います、寝る暇がなかったんでしょうねと、冗談か本気か分かりにくい先生でしたがおしゃっていました。

母は麻薬パッチを貼っていることを忘れさせるほど生命力に溢れていて、余命宣告通りに亡くなったことが悔しくて、信じられませんでした。

今でも信じられないというか、病院に入院していて、そのうちただいまと帰ってくるんじゃないかと錯覚してしまいます。
何か嬉しいことや、昔話になると母にLINEしたくなったり、電話しようと一瞬思いがよぎって、我に帰ることもまだまだあります。

母は骨盤骨折をしていたので、寝たきりの3ヶ月でしたがそのうち歩けるようになるんじゃないかと思ってしまうぐらい、よく笑ってよく食べていましたが
2ヶ月を少し過ぎたころ、在宅医療の先生から遠くの親戚がいらっしゃれば、そろそろお会いした方がいいかと思います、と言われました。

そのころの母は食事の量は減っていましたが、昼間交代でくる妹たちとドラマを見たり、うたた寝したりとのんびり過ごしていました。
確かにうたた寝の回数や、寝ている時間は少し長くなってきていたように思います。
私たちも言われた余命をカウントダウンしていたわけではないので、先生の言葉でハッとしたのを覚えています。

やっぱりもうすぐ母とはお別れなんだと。こんなに笑っているのに、あと2、3週間でお別れしないといけないなんて信じられませんでしたが、本当にその時がきたら、母に会いたかった人たちが悲しむと思い、たくさんの人に連絡しました。

調子がいい日を選んでたくさんの人が会いにきてくれましたが、こんなに人がたくさん自分に会いにきたら、母もそろそろだと思ってしまうんじゃないかと心配でした。
現に母は今すぐ死ぬ人みたいにみんな来るやんと言ってたほど。

夏が始まり7月は父のお誕生月で、当日がたまたま週末だったため姉妹家族みんな揃って父のお誕生日会をする予定を立てていました。

お誕生日会の前の週、母と父とビデオ電話をしていた妹が、電話を切った後わたしに電話してきて言いました。
妹の夫が母の顔を久しぶりに見て、もうそんなに長くないんじゃないかと言っていると。顔が変わりすぎて驚いていたと。
私たちはほぼ毎日母の顔を見ていたので、小さな変化に気づけていませんでした。
今週末に誕生日会を早めた方がいいのではないかという内容でした。

そんなに変わったかな、、、そう言いながらもその週末に予定を変更して、姉妹、夫たち、孫たち全員集合しました。
その日妹の夫が舟盛りの豪勢なお刺身を持参してくれていて、母は美味しい美味しいと言い、いつもよりもたくさん食べ、お酒も少し飲みました。

これが今思えば、亡くなる前の回復期と呼ばれる段階だったんだなと思います。
とても楽しそうに、みんなに囲まれて、幸せだと何度も何度も口にしていました。