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歩くこと、そしてすでにここにある自由について【歩き旅を終えて③】

これは、東京から京都までの約500キロの歩き旅を終えたばかりの僕が、いま振り返って感じることをまとまらないままに書き連ねる連続エッセイ(というよりもはやただのつぶやき)です。

歩いていると、僕は「自由」を感じる。

自由については、よく分かっていないので、「自由的な何か」を感じるといったほうがよいのかもしれない。

どこへ進んでもいい、速度を上げてもいい、いつ止まってもいい、上を見上げても下を見つめてもいい、いま僕と僕の身体は空の下で自由に開かれている、そんな感覚になる。そして、生き生きとした気持ちが内側から湧いてくる。そのときの感覚や気持ちが僕は好きだ。

それは一つに歩くことが「ゆっくり」だから実現すると思う。目的地に「はやく」到達しようと考えれば、飛行機や新幹線や車の方が望ましいだろう。しかしその場合、はやく到達する代わりに、僕の自由はちょっと損なわれる(止まりたい場所で急に止まったらパニックになるので車はまっすぐ走り続ける)。歩くことは「ゆっくり」がゆえに不便で非効率であり、同時に自由っぽいのである。そんなことを、今回の旅を経て気づいた。

朝、すかっと晴れた青空を見上げて、太陽の光に若干の眩しさを感じながら新鮮な空気を吸い込んだとき、僕はどこまでも歩いて行けそうな気分になる。それはすでにそこにあった自由を思い出す瞬間だ。

僕はすでに「歩く」という自由を持っている。
そう思えたとき、何かが軽くなった気がした。

20代の頃、僕は自由に近づこうと必死だった。より自由になるために、より自由な自分になるために、どんなスキルが必要だろうか、どんなキャリアを歩めばいいのだろうか、どうなれば僕は自由を獲得できるだろうか、そんな言葉が頭のなかをゆらゆらしていた。当時、無意識の前提に「現在の僕は不自由であり、自由を獲得する途上にある」というものがあったと思う。

一方で歩くことが教えてくれるのはそれとは違う。歩くことは「現在の僕はすでに自由のかたちを一つ持っている」と教えてくれる。むろん、自由のかたちの一つ=歩くこと、だ(僕にとっては)。大げさだがそうやって「僕はすでに自由である」という前提に立ってみると、見える景色がなんだかちょっとだけ変わる気がした。

歩くことはそんなことも教えてくれた。まだ上手に整理されていないが、なんだか大事なことに繋がっていく気がしている。

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