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歩くこと、そして疲れることについて【歩き旅を終えて①】

これは、東京から京都までの約500キロの歩き旅を終えたばかりの僕が、いま振り返って感じることをまとまらないままに書き連ねる連続エッセイ(というよりもはやただのつぶやき)です。

20日間、約500キロ。東京・日本橋から京都・三条大橋までの距離を歩いて旅した。その後、熊野古道にも数日立ち寄り、また歩いたため、合計すると530キロの道のりを1カ月弱かけて歩いた計算になる。

東海道五十三次の宿場町を辿るように歩いた

帰宅した日の夜は8時間ぐっすり眠った。久しぶりの家のお布団はふかふかで幸せだった。それでも、朝目覚めると、ずっしりと重い「疲れ」が僕の身体の奥深くにまだたくさん残っている感覚があった。「身体の芯から疲れている」。それが率直に思ったことだった。そして、この疲労がましになるまでには、おそらく1週間か2週間はかかるだろうと直感で分かった。

そもそも「歩くこと」と「疲れること」は兄弟のようなものだ。歩き続ければ、疲れる。ゴリラと喧嘩したら、負ける、と同じくらい当たり前のことだ。

なので、歩くことを続ける中で疲れることとは自然に向き合うようになった。思えば、旅の1日目から最終日まで(あるいは旅を終えた今も)ずっと「疲れ」と付き合いながら一緒の時間を過ごしてきた。

難所とも言われる箱根越え

でも疲れが連れてくるのは、何も悪いことだけではない。

歩いて感じたのは、適度な身体的な疲労がある方が、僕はむしろ自然体でいられることだ。頭はいつもよりすっきりして、気持ちも晴れやかでいられた。

一方で、精神的な疲労は必ずしもそうではなく、気持ち(神経?)が疲れている時は、僕は自然体とは程遠い状態でいる気がする。ちなみに歩いていると、身体をまとうそんな「気疲れ」のようなものをどんどん後ろに置き去りするイメージがあった(その代わりに身体的な疲労が身体を満たしていった)。

ちなみに「疲れ」と言われたら、RPGゲームの「HP」のように、100あったものが徐々に減っていくイメージがあったが、どうやら話はそう単純ではないらしい。身体の疲れも、気持ちの疲れも、HPのような「単線的」な世界にないと気づいた。気持ちはまだ想像しやすいが、身体の疲れもそう。歩き続けるとふとした瞬間にさっきまであったものがなくなったり、その逆もあった(どうやら「疲れ」も風景と同じように、揺らいだり移り変わったり明滅したりしているらしい)。

そういったことを思うと、歩くことは疲れを「貯めていく」行為とも言えるが、一方で、疲れを「動かしていく」行為とも言えるのかもしれないなぁと今回の旅でふと考えた。コロコロと動かしていると、かたちが変わっていくのだ。

だからじっとして減らそうとするとなかなか減らないが、動かしてみると減ったりするのかもしれない(あるいは、単純に増えたりもするのかもしれないが。どう変わっていくかは究極分からない)。

僕は、身体に残る図太い疲労を内側に抱えながら、今日も近所を適当に散歩する。疲れを身体のなかでコロコロと動かしていく。「HP」理論でいえば、さらに疲れそうなものだが……話はどうやらそんな単純でもないらしく、僕のなかの「疲れ」は風景のようにその姿をゆらゆらと変えていく。

※1回目からいきなり「疲れ」について書くなんて思いもしませんでしたが、ある意味では帰宅ほやほやの今しか書けないものかなぁとも思います。また2回目以降も不定期で書いていきたいと思います。

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