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落語日記 古典落語に新風を吹かせた馬石師匠

鈴本演芸場 5月下席 昼の部 隅田川馬石主任興行
5月30日
金曜日に緊急事態宣言の延長が決まり、その直後の日曜日に久しぶりに鈴本演芸場へ出掛けてきた。前回は4月10日の訪問で、このときの鈴本の状況は、夜の部は休席して昼の部のみ、毎週月曜日を定休日とする形態での営業形態だった。
その後の動きは、4月25日に3回目の緊急事態宣言が発令されるも、無観客開催要請が実態に即さないと一旦は興行継続を決意するが、東京都からの強い要請を受けて5月1日から11日まで再度の休業となる。5月12日中席から寄席の興行が再開されるが、鈴本演芸場のみ夜の部は引き続き休席している。
6月20日までとする2回目の緊急事態宣言の延長で、寄席の営業についての制限に変更あるかを注目していたが、5月末日までの状況から変化はなかった。
そんな状況下、鈴本演芸場5月下席は、隅田川馬石師匠を主任とし、「馬石 昼間の長講」と題して9日間毎日ネタ出しの特別興行が企画された。この状況で、なかなか攻めた企画を打ち出した鈴本演芸場、さすが新席亭の若旦那は頑張っている。
この日はその馬石師匠の主任興行の楽日で、ネタ出しの演目が「柳田格之進」。馬石師匠の柳田格之進はまだ聴いたことが無いので、楽しみに出掛けてきた。
木戸口で驚いたのは、テケツの窓口が閉まっていて、入り口のモギリの前にチケットの自販機が置かれていた。モギリに立っていたのは、前席亭。指示のとおりに自販機で木戸銭を支払う。自販機を導入した寄席は鈴本が初めてだろう。これもコロナ感染症対策の一環と思うが、テケツの窓口が無くなったのは何となく寂しい。

途中入場

春風亭柳朝「宗論」
マクラは、入門時の思い出話から始まり、当時の親の気持ちが今ならよく分かると。そこから親子の噺へ上手い流れ。ふざけ過ぎない若旦那が心地よい。

ホンキートンク 漫才
新生ホンキーも板についてきた。この日のネタも初めて聴くもの。遊次さんが弾さんに物申す、なぜ結婚出来ないのか、というネタ。弾ける遊次さんのキャラが活かされている。

蜃気楼龍玉「道灌」
コロナ禍のため、龍玉師匠を拝見するのは久しぶり。やっぱり、上手いなあと惚れ惚れしながら聴く。前座噺で定番のクスグリしかないのに、抜群に可笑しい。なるほど、人物描写が見事なら、笑えるように出来ているのが落語なんだと、改めて納得。

柳家小里ん「碁泥」
拝見するたびに、風貌と共にお声も先代小さん師に似てきている。噺も先代小さん師が得意とした演目。登場人物の鷹揚さあふれる雰囲気が昭和の香りを漂わせる。互先(たがいせん)など、囲碁の専門用語が飛び交うところも、風格を生む。

ダーク広和 奇術
この日は、ロープを使ったマジック3種。最後はTシャツの柄を使ったトリックで、ビックリ。いつものように、良いでしょう、このマジック、と嬉しそうな表情に観客も和む。

林家正蔵「雛鍔」
マクラ無しで本編へ。噺に集中している雰囲気、風格が出てきた。金坊の可愛さ、父親の職人気質、商家の大旦那の貫録、それぞれの表情が見事。

仲入り

立花家橘之助 浮世節
寄席に欠かせない存在。この日も高座をぱっと明るく華やかに彩る。曲は、茄子南瓜とたぬきを熱演。

柳家甚語楼「権助芝居」
昔の娯楽は芝居と寄席という導入のマクラ。軽妙で笑いの多い高座だが、本格派の香り。この日の演目の中では、笑いが多い噺なので、大いに盛り上がった。

林家正楽 紙切り
相合傘(鋏試し) 紫陽花 柳田格之進
最後のリクエストを聞き流し、無視する風で、しっかり応えて盛り上げる。柳田と萬屋が碁を打つ場面を見事に切り抜く。ネタ出しの主任の一席に繋がるお題を出したお客さんもグッドジョブ。

隅田川馬石「柳田格之進」
私の入場時はおそらく40名くらいだった観客が、主任が上がる時点で倍以上に増えていた。その観客の7割くらいは女性客。さすが、女性に人気の馬石師匠だ。
マクラでは、コロナに感染された雲助師匠の現在の様子を弟子として観客に伝えてくれた。「腹へった」という雲助師匠からのショートメールが、笑いを呼びながらも師匠の元気な様子を伝えてくれるもの。落語家らしい病状の報告だ。
そして、この芝居のコンセプトを説明。昼酒は効くということから、昼噺は聴くと洒落て、昼間に長講の噺を聴いてもらおうと、九日間ネタ出しする特別企画。
初体験の馬石師匠の柳田格之進、どんな柳田を聴かせてくれるのか、聴く前から楽しみでワクワク。

いつもはフワフワしていて、明るく柔らかい印象の馬石師匠の語り口。しかし、この日は、全般的に、どこかきっちりとしていて、背骨がしゃんと伸びたような印象の語り口だった。笑いどころが少なく聴かせる人情噺、元は講釈ネタであり、この噺そのものが持つ印象が硬いもの。この噺が持つ雰囲気に合わせて、噺の雰囲気を壊さないような語り口で聴かせてくれた。まさに、馬石師匠の芸風の幅の広さを感じさせてくれた高座だった。

この噺は、武家の親子や商家の主従が見せる現代人からみると不条理とも思える江戸時代の価値観と、演者が向き合い格闘する演目だと私は考えている。
この噺の粗筋は以下のとおり。生来の実直さが災いして浪人となり、江戸で娘と二人暮らししている柳田格之進。暇つぶしに行った碁会所で出会った浅草の両替商の萬屋源兵衛と出会い、萬屋邸で碁を打ち酒を酌み交わす仲となった。柳田が月見の宴に招かれた日、萬屋では五十両が紛失し、番頭は柳田を疑い、主人に黙って翌日柳田宅を訪ね、五十両の在りかに心当たりないかを問う。そこから、武士の矜持や主君の家名を守るための柳田の覚悟から、騒動が巻き起こっていく。
この噺には、現代人にとって理解し難い江戸時代の価値観の数々が登場する。五十両の金子や娘の犠牲よりも守るべき武家の矜持や主君の家名、親の為に自己犠牲を厭わない娘、商家の奉公人の主人家への忠義心、大店商人の金銭感覚、もっと言うと、切腹や首を差し出すという命の遣り取りによって謝罪の意を表したり償ったりする行為。
これらと向き合い現代人の演者が現代人の観客にどのように聴かせるのか、伝えるのか。不条理と切り捨ててしまわないで、落語として納得させることができるのか。はたまた、理解不能の価値観であっても、時代を写す価値観として、時代劇のように深く考えずに当然のように受け入れて演じるのか。こんな視点を持ってこの噺を聴くと、演者の考え方の一端が見えるようで面白いのだ。

そんな視点で聴くと、馬石師匠はひとつの答えを出してくれた。その答えの分かる場面が、五十両に心当たりは無いかと訪ねてきた萬屋の番頭が帰った後で、柳田親娘が話を交わす場面だ。
娘のお絹は、吉原へ身を沈めて五十両を用意するという申し出をして、父上、お腹はお召しにならないでください、親子の縁を切ってくださいと懇願する。淡々と、しかも父親に対しても臆せず堂々とした物言いは、お絹の武家の娘としての気位の高さと父親が切腹することを見抜くほどの利発さを見事に伝えてくれる。この娘の懇願を受けての柳田の答えが、多くの落語家が語ってきた今までの柳田格之進の筋書と違っているのだ。
腹は召さぬ、縁も切らない。そう言って、家宝の刀を処分して五十両を用意する。娘を苦界に身を売らせないのだ。家名のため、主君のため、その名誉を守るために身を犠牲にするという武家の信念は貫き、そのために五十両は用意する。切腹せず娘も売らず、武士の魂とも言える家宝の刀を売ることによって信念を貫くという設定にしたのだ。

この一席のように、娘が吉原に身を売らない型は珍しい。私は初めて聴く。ネットで調べると、柳家三三師匠もこの型らしい。
終盤で娘は身請けされ吉原から救出されるも、精神的に傷付いた痛ましい様子が語られることも多い。そんな悲惨さを和らげるように、番頭と結ばれたり、嫁入りが決まったりと、娘の行く末を明るくする筋書きもよく聴かれる。
このような娘が犠牲になるという設定によって、家名や武家の矜持の犠牲となった娘に対する親としての罪悪感が生まれる。この罪悪感による強烈な後悔が、柳田の悲しみや怒りや苦しみを増幅していく。そんな演出効果があるのだ。
最後にその感情を碁盤にぶつけて、商家の主従を許してしまう。ならぬ堪忍、するが堪忍、下げでこの慣用句が聴かれる。その、ならぬ堪忍を象徴しているのが、娘の身の犠牲に対する後悔なのだ。なので、娘の身の犠牲がない設定にすると、柳田の強烈な怒りや悲しみの感情が伝わりづらくなるという短所にもなるのだ。

現代人である馬石師匠は、武家や父親の誇りを守るために自己犠牲を厭わないお絹の価値観、武家の価値観を、現代人が納得し易くするために改変したものと思われる。
伝統的な筋書による柳田の強烈な怒りや悲しみの感情が生む効果を犠牲にしても、娘の身の犠牲という悲惨さを消したかったのかもしれない。なので女性の観客にも、後味の優しい噺となっている。
男目線の噺を男の演者が語る芸能として、古来より伝承されてきた古典落語。現代において老若男女区別なく楽しめる芸能として生き残るために、落語家たちがその筋書に残る男尊女卑や封建的な価値観と格闘している。まさに現代に生きる落語家たちの大いなる課題なのだ。
演者の解釈は、人それぞれなので、どのような演出が正解かの答えはない。それよりも、演出意図が観客に伝わる演じ方や演出が大切なのだと思う。この日の柳田からは、娘の身を犠牲にすることを嫌らい、武士の建前よりも親子の情という本音を優先させたという馬石師匠の意図が強く伝わってきた。このことが素晴らしいのだ。
私はこの演出もありだと思うし、従来の型も残すのもありだと思っている。伝統的な型の承継は大切だし、時代に応じた変化もあって良い。どちらも現代における古典落語であり、どちらも正解なのだ。
この無骨な演目「柳田格之進」をネタ出ししているにもかかわらず、7割くらいは女性客という結果は、多くの観客が馬石師匠の答えを支持しているように感じる。
そんなこんなを感じさせてくれた馬石師匠の一席だった。

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