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男女の意識格差は埋めていかないとなぁ

21時にもなろうかという頃、少し開けた家の窓越しに大人の女らしき声が聞こえてきた。
誰かに文句を言っているような喧嘩をしているような。

初めお母さんが子供を叱っているのかと思ったが、相手はどうやら大人のようでもあり、夫婦喧嘩かと想像がついた。

その声はだんだん近づいてきて大きくなり、やがてはバシバシと何かを叩く音、想像するに妻が夫を叩く音なんかも聞こえて、これはいよいよ本物の喧嘩だと、パートナーと顔を見合わせてたまに笑い、あとは黙ってパソコン作業などをしていた。

そのうち夫の方は車に乗って家を後にした。
この人は去年の同じ時期にも同じことをしているのだ。それで2、3日帰ってこなかった。
当時、妻はまだ幼い2歳くらい? の男児と二人でワンオペ状態。
家に妻子を残し自分だけ出ていく男は楽でいい。その後の家庭内での出来事を一切スルーしてしまえるわけだから。

沈黙は金なり、ではないのです。
沈黙は、一家の沈没なのです。


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たとえば子供が熱を出した時。出社しなければならない夫は何を思っているだろう。
妻が会社を休み、子供を受診させ、その結果を聞いて心配しているポーズをとればいい。それで子供が予定通りに回復してくれれば万事OK。
そんな風に思っているんじゃないのかな。
「あとは、まかせたぞ!」「じゃ、オレ仕事あるから」そんな感じで。

妻の方はどうか。
ぐたっとしている子供に神経をすり減らしつつ(こういう些細なことの蓄積がボディーブローみたいに後で効いてくる。相当の疲労を生んでいる)、自分の着るもの、軽くファンデーションくらいはたかなければならない、せめてリップくらいは塗っておこう、あ、マスクしちゃうから別にいいか、と自分のこと、それから子供を着替えさせ(その間子供は懸命に鼻水なんかすすり、まとまった咳などしているのだ)、大丈夫? と声をかけな鼻水をかませ、トイレにいかせ、水を飲ませ、額に手をやりそれから首元に頬をつけ、大丈夫。
熱はさっきとそれほど変わっていないみない。でも外に出た途端に寒がって上がるかもかもしれない、そうだ一枚上にかけるものも持っていこう。
あ、健康保険証忘れた。お薬手帳持っていたよね? カバンの中を再度確認しハンカチをもう一枚。充電しっぱなしで置き忘れたスマホを取りに行く。

そんな過程を経て、それでようやく玄関で靴を履くのだ。


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いいですか。
ここまでが家を出るまでの行動と感情の上がり下がりを夫の方がご存じか?
「病院に連れて行かなくても大丈夫?」ではないのです。
一体誰が会社休んで連れて行くの? 
「朝、さっと行ってしまえば」って、あなたの「さっと」はどのくらいの時間を指すのか。加えてそこには感情は含まれないのか。 

誰かを家に残したまま、外に出てしまえる人は幸福だ。育児にしろ、介護にしろ。

家を一歩でも後にすれば、対外的な人として機能し始める。煩わしい家庭のことはスパッと切って。気分も感情も置き忘れて、外であははと笑っていられる。

ちなみに男女の入れ替えは可能です。
主夫をこなす男性もいるし、知り合いのお宅のお父さんはご飯支度から子供や奥さんのお弁当作り、学校行事への出席なども積極的にやる。
当然ながら男性だから必ず、と言っているわけではないです。
そこには個人の性格や資質があるから、絶対ということはありません。

基本的に、物事に「絶対」ということは「絶対」にありません。

ただ、その傾向は未だに強いということです。
日本はもっと夫婦の役割分担とかそもそも同等な共同生活者という概念を男性も女性も持った方がいい。


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わたしは夫のことを「主人」と発言したことがありません。細かいことだけど、主人というのはその家の主、中心となる人なわけで、家、家庭は決して経済的な側面だけで成り立っているわけではないから。
わたしは夫と精神的に平等でいたい。相手が年上とか年下とかそういうのは関係ない。 
わたしは仕事をしている。給料の額が多いか少ないか、そういうのも関係ない、と思っている。

だから逆にいえば、男性も自分の稼ぎの方が妻よりも少ないからという理由で卑屈になる必要は全然ない。だって一緒に生活しているわけでしょう。オレがたくさん稼がねば! とかそういうのを一人で背負わなければならないと思う習慣や風潮をなくさなければならないんじゃないかな。

パートナー的な意味の言葉があればいいんだけどな。共同生活者?
そこに家庭的な意味が含まれると共同生活者は別の意味になるのかな?


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子供には、男であっても「自分のことは自分でする」ように教えている。

いつまでも、おかあさんがいてくれるわけではないのです。年齢的に先に死んじゃうという意味ではなくて、将来結婚したりしてパートナーを持ったとしても、その相手が食事の準備をしたり、お風呂の後の下着を用意するのが当たり前のように思ってはいけないよ、ということ。

その相手は、もはや「おかあさん」ではないのです。妻とか、パートナーとか、言い方は何にしろお手伝いさんではないのです。
家事や、家のことをすべて知っていたり家人の衣類や大事なものの置き場を把握している使用人ではないのです。

そういうことを、特に男児には子供の頃から意識的に植えつけていかなければならないのかなとも思っている。
母親は女の子には厳しい。同性だし、「女としてこういうことができなければみっともない」「自分も母親にはこうしつけられた」みたいな感情もあって突き放すところは突き放す。冷たいんじゃない。結果的にそれが愛情。それがきちんと将来にも生きてくる。

でも一方で夫や息子に接する態度が、旧来の「男だからやってやるのが当たり前」のような感じで日々援助しすぎると、母親の姿やそれを当然のように受け取る男性を見て、女児は男性への接し方を保護する立場として習得してしまう。

だから教育がとても大切になる。
それらを教える親、学校の先生、地域社会の結局大人たちが理解していなければ、これまでの日本の家族や男女の在り方の慣習を変えることはできない。
変わらないでいいこともある。でも変えていかなければならないこともある。

わたしは今の日本の男女の平等化はまだ発展途上と思っている。
だからせめて、身の回りで出来ることからやらなければと考えている。

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