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2006 沖縄 粟国島

写真の力って、時が過ぎることで増していくんだと思う。
記憶を閉じ込める媒体。
記録としての手段。
過去に戻ることはできないけど、写真を通して記憶を呼び覚ますことはできる。SR-3で撮った写真を探したら少し出てきた。

2006年に友人と二人で粟国島に行った。
那覇から片道約2時間。行こうと思い立った日、台風が接近していたらしく波が高くて、激しい船酔い2時間の地獄を見た。船に乗り込んでから、二人それぞれ船酔いに必死で、降りる時まで会うことはなかった。

宿は一泊二食付きで5000円だった。
港から送迎があるはずだけど、誰もこない。
近くの宿の人が見かねて送ってくれる。どうやらいつものことらしい。

宿は80代くらいのおばぁが切り盛りしていた。
粟国の塩工場までどれくらいかと尋ねたら、歩いて20分くらいだという。
歩いて向かってみたら1時間くらいかかった。
自販機もないし、途方にくれた先に、かき氷300円の看板。
おじさんに作ってもらって食べた。
古い機械で、かき氷っていうよりは砕き氷だった。
お代を払おうとしたら、「いいのいいの!来てくれるだけでありがたいから!」と言ってうけとってもらえなかった。

迷子になってたどり着いたかき氷

塩工場の写真はないけど、木の枝に海水を吹き付けて水分を飛ばす昔ながらの製法を見せてもらった。天日干しの様子も見た。
粟国の塩は本当に美味しくて、20年近く経った今もずっと愛用してる。
ちょっと気の利いたスーパーなら売っているので試してみて欲しい。

塩おにぎりにすると美味しい。
作ってるところを自分の目で見て納得するっていうのは、人生が豊かになるなと思った。

粟国の塩。ちょっと気の利きいたスーパーなら普通に売ってる。

宿での夕食、小学生くらいの宿の孫娘が、食堂のテレビのリモコン権を握っているらしく、客が見ていようがお構いなしにテレビのチャンネルが次々に変わる。何を食べたか全く覚えていない。多分もずくの天ぷらかなんか。
食後に店主のおばぁに勧められて映画「ナビィの恋」を鑑賞する。

ナビィの恋のロケ地

ナビィの恋のおばぁのお墓の前での座り方が、沖縄のおばぁのしゃがみ方で、なんかよかった。


デジタルで撮ってないものはデータから抜け落ちていたりするので、拾い上げられてよかった。全ての写真を残すことはきっと不可能だけど、発掘できた時は嬉しい。
残らないかもしれないけど、それでも写真を撮るんだと思う。

島唯一の信号機
朽ちた車
繋がれていないヤギ。近くに、ヤギの放牧禁止の看板あり

2005年に沖縄に住み始めて、約一年くらい経った頃に行った粟国島。
京都から那覇、そして粟国島っていう、カルチャーショックに圧倒されっぱなしの日々だった。
感覚が麻痺していて、野良のヤギと遭遇してもはや驚きはしない。

写真一枚から蘇る記憶もある。
写真は記憶を呼び覚ます装置だ。

帰りは確か、台風が近くて船が出なくて仕方なく延泊した気がする。
飛行機なら帰れるけど、レーダーがなくて目視で確認して着陸って言われたよね。遠慮した。

沖縄という土地にとって、1年暮らしたくらいでは、我々は圧倒的に外の人間なんだなと感じた。
沖縄には結局6年いたけど、最後まで自分は外の人間なんだという感覚はなくならなかった。

沖縄という立地の厳しさ、さらに離島という厳しさ。
私たちはその、美味しい部分を見せてもらうだけの観光客だ。

宿の店主の息子(50代くらい)に、家に招いてもらって話をした。
出されたコーヒー牛乳の紙パック、賞味期限が三日切れていた。

家のリビングには、10台くらい、もしかしたらもっと、テレビが積んであった。「俺は日本中の、全部のニュースを見てる」という息子。

今ほどインターネットでなんでもという時代ではなかった。
スマホもまだない時代。

情報が入る、というのはそれだけで鎧になる。
この話にオチもなければ、だからなんだって話なんだけど、
当時の沖縄の離島のリアルを見たんだと思う。
沖縄の話をしようとすると、いちいち情報過多になりがちだ。

帰りの船はしっかり酔い止めを飲んで、無理やり寝ている間に着いた。
なんだかヨレヨレになって友達とバイバイした気がする。



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