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日本のフェミニズムに対する明治維新の影響。


 黒船来航以降、日本は国際社会の荒波にさらされ始めます。それに対応出来なかった幕府を打倒した明治政府は「富国強兵」のスローガンを掲げ「和魂洋才」の方針で当時の最新流行の国家システムである国民国家づくりに邁進します。

東洋の大国清帝国と欧州列強であるロシア帝国との戦争に勝利して、世界的にも一流国の末席を与えられ、江戸末期に諸国と結んだ不平等関税も改正されます。

 当時の先進国として必須の憲法の制定も行われます。それに伴い国会の開催と選挙制度が実施されました。明治維新を成し遂げた人々は、得意満面だったでしょう。

 しかし。国民意識形成の為に普及された普通教育を受けた世代が成人した大正時代になると国民全てが政治参加を望む風潮が生まれてきます。大正デモクラシーです。


 大正時代では、男性の高額納税者しか選挙権が無い制限選挙制度だったので、普通選挙への要求と労働者の権利を要求する運動が主でしたが、大学などの高等教育を受けた層から女子参政権の声が上がります。文化人を中心に女学校や女子大を卒業した上流階級の婦女子達で構成されたいました。

 この婦人参政権活動は、戦後に結実します。敗戦結果としての改憲の流れとは言え、世界的に見ても早い方です。それ以降にフェミニズムが高揚したのは、学生運動と連動した女性解放運動です。

 60‘年代の女性解放運動は、現在のフェミニズムからは想像出来ないくらい自由主義的な物でした。既存の社会通念から女性を解放して「婚姻」「ファッション」「恋愛」「社会進出」などの伝統的縛りが強かった分野で、女性が個人的主体性を持とうと言う運動でした。これの集大成が、働く権利の平等を目指した1980年代の男女雇用均等法です。 

この様に大正デモクラシーから始まる女性の権利獲得運動が、海外のラデカルフェミニズムの影響を受けたとは言え。何故、キャンセルカルチャー化して社会の分断と対立を生み出す思想に変化したかの仮説を検証してみます。

 明治維新政府が、推し進めた政策の日本柱が「富国強兵」「和魂洋才」でした。故に女子高等教育もキリスト教団体が深く関係して、津田梅子女子も海外宗教団体の支援を受けていました。その結果発生した女性解放運動も欧米の影響を強く受けた男性と平等の公的権利を獲得する物です。

 社会で男女の権利が拮抗すると主導権争いやセクシャルハラスメントが多発して、ウーマンリブを生み出します。それの極北が、ラデカルフェミニズムに代表される女性による支配論です。これは、父権主義の性別反転であり。男性を悪役にしてのみ成立する社会の公共性を欠いたものです。他に女性の権利を確保出来る公共性は存在しないのでしょうか?。

 明治維新が切り捨てた江戸時代以前から日本社会に受け継がれてきたオカンの「家庭の経済主導権」とオトン「社会での公的決定権」の分離という知恵を見直して、新たな価値観を見つけ出して行きたいと考えています。

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