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結局「変な人」をまとめたいのか?

どうして障害を扱う作品には高い確率で性的マイノリティの人が出てくるのでしょうか。

こんばんは、くつばこのりこです。最近みた障害を扱った映画、全てに性的マイノリティの人が登場しました。性的マイノリティの人が出てきた瞬間、わたしは「詰め込みすぎだろー」と思ってしまって、なんとなく違和感があるのですが、それがなぜかを考えてみたいと思います。
※「彼の見つめる先に」「最強のふたり」「恋です!」のネタバレが含まれます。

☆作品の紹介

最近見た「障害を扱って、性的マイノリティも出てくる映画」は以下です。
彼の見つめる先に
視覚障害のある主人公は、同性愛者(同性「も」愛せる、かも)で、映画の最後の方でそれが明かされます。彼のことを好きだった女の子の恋はかないませんでした。

最強のふたり
主人公?の黒人男性がちょっかいを出していた女性は同性の恋人がいました。映画の最後の方で明かされます。

恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~
男の登場人物がの好きな人が同性だったそうです。

逆に、わたしがここ数ヶ月で見た作品で障害を扱い、ストレートの恋愛しか出てこなかった作品はありませんでした。でも、そう、圧倒的に母数が少ないんです。単に2連続で当たってしまって、今話題のドラマも偶然そうだっただけかもしれないということは、念頭に何度もおいておきたいところです。

今回は、なぜ自分が違和感を覚えるかに焦点を当ててみたいと思います。

☆「おまけの種明かしとして使われる同性愛作品」

わたし映画とかですぐ泣くタイプなのですが、障害テーマで同性愛が出てきた展開は、どちらもさっと冷めてしまいました。同性愛テーマで障害が出てくるパターンは少ないので(性的指向のほうが、かくして、びっくり!につながるので)、逆のパターンとの比較はできないのですが、「おまけの種明かしとして使われる同性愛作品」が覚める原因な気もします。

☆①おまけ感

じゃあまず、「おまけ感」から分析したいと思います。障害を扱う作品は、もっと抽象的に言えば、「多様性」を扱う作品です。そのような多様性を扱う作品の、別の一部分として登場する「同性愛」は、必ず受け入れられ、華やかに成立します。「現実そんなに甘くないよー」と思ってしまいます。これはわたしが同性愛者に近いからそう感じるのであって、障害当事者からみたら、映画冒頭からずっと「現実そんなに甘くないよー」って感じるのかもしれないですね。

☆②日常茶飯事

次に、「その種明かし、人生の日常茶飯事だから」っていう感情です。映画の展開として、最後の「ネタ」として使われているのでしょうが、「え! 異性愛者じゃなかったの!」という展開で楽しめるのは、異性愛者だけ。「あ、そういうことなんですね」という程度になってしまうんです。肉まんを食べたら、中身があんこだったくらいの衝撃度です。コース料理の最後が肉まんで、その肉まんだと思っていたものがあんまんだったら、「!」より「?」の方が大きいですよね。

☆③自分に重ねちゃう

最後に、「急に現実を考えちゃうな」という感情です。映画の主人公には感情移入して見る派ですが、主人公が同性愛者だと更にその主人公に自分を重ね、あまりに現実に近づいてしまうし、主人公以外が同性愛者だと、主人公よりその人に印象が残ってしまう。結局、自分の当事者性の特別感から離れられないということです。フラットには見られない。

次回は、どうして作成者側が障害と性的マイノリティを同時に描くのか、考えてみたいと思います。


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