【アパレル業界の話②】レナウンの破綻に思う。
私のアパレル人生をラルフローレンとダーバン(現レナウン)を抜きに語ることはできないです。
洋服が大好きだった私は、当時ブリティッシュトラッドに傾倒しており、特にロバートレッドフォード主演の映画「華麗なるギャツビー」の衣装には魅了されました。
その衣装をデザインしたのは、ラルフローレン。彼はユダヤ系移民の貧しい生まれ。実はブルックスブラザーズの営業としてネクタイを販売していた経歴を持っています。今や日本人で知らない人はいないほどのビッグブランドにまで成長させたデザイナーとしての手腕は、語るまでもないでしょう。
ダブルのラペルドベストのスリーピース、ラウンドカラーのシャツ、ピンクのリネンスーツ、etc...ラルフローレンがデザインした衣装は、クラシックでエレガント、古き良き英国の風情を思い起こさせると同時に色遣いが独特の新しさがある存在感溢れるデザインでした。
ブリティッシュトラッドが最高と思っていた10代の私の心に突き刺さったのは至極当然でした。当時は若いので、ディテールに目がいきがちでしたが、今思えばシルエットも秀逸でした。
日本に上陸したのは、1976年。西武百貨店とライセンスが締結され、オンワードとの合併会社であるインパクト21による日本の展開がスタートしました。また、商品によってはライセンスを獲得した会社があり、メンズ重衣料はダーバン(現レナウン)、メンズカジュアルはナイガイ、レディースはインパクト21といった状態でした。その後統合され今のラルフローレンジャパンにいたります。
福岡の大学を出て、洋服が大好きだった私が選んだ会社は、そのラルフローレンのライセンスを保有していた日本のメンズアパレル売上No1のダーバン(現レナウン)でした。北九州市に井筒屋という百貨店があります。そのメンズフロアでラルフローレンのフラッグショップがあり、そこで働くことを夢みていました。今思えば浅はかな動機ですが。
ラルフローレンをはじめとして海外ライセンスブランドを担当する部署を希望していた私が配属されたのは、まったく希望していなかった主力のダーバン事業部でした。会社からすれば当たり前の配属人事ですが、バカな私は自分が希望する場所に行けると確信していたので、そのショックたるや相当なものでした。
大手アパレル会社は、百貨店に社員を派遣し、店頭で販売させます。皮肉にも私が派遣されたのは、ラルフローレンがある北九州の井筒屋百貨店でした。同じメンズフロアのダーバンショップで販売員として働くことになったのです。ダーバンはどちらかと言えばイタリアンです。ブリティッシュにこだわりを持っていたので、入社当時は、自社製品でなく自前のスーツを着て働いていました。今思うと恐るべしです。
その後、他のアパレルブランド転職する前までの数年間ダーバン(現レナウン)で働いていました。知り合いも多く、今でもお付き合いのある人がいます。
バブルが弾けた後、ダーバン、レナウンとも業績が悪化し統合されます。レナウンがアクアスキュータムを買収した時は、あまりの買収金額の大きさに社運をかけてるなと感じていましたが、やはり財務を圧迫していました。
よく挑戦といいますが、それがギャンブルになって失敗のダメージが拡大し、何も変えることができないままの状態になることは人間だけでなく企業にも当てはまります。中国の山東の傘下になった後も経営は苦しくコロナが引き金となって破綻してしまいました。
世間にはあまり知られていないですが、日本でのトミーヒルフィガーのライセンス展開を始めたのは、ダーバン(現レナウン)でした。また、ブランドロゴ戦略を日本に広めたのも、レナウンです。今では考えられませんが、1960年代の男性の休日のカジュアルファッションはゴルフウエアが主流でした。レナウンが世の中に送り出したアーノルドパーマーはその最たるものです。世のお父さん達は、休みの日はみんな胸にロゴがついた天竺のポロシャツを着ている人ばかりでした。
そんなレナウンが破綻したことは、さすがに全国ニュースとなり、多くの人を驚かせました。様々な専門家がその考察をしているので、ここでは控えますが、日本一のアパレル企業だったレナウンには日本のファッション文化を牽引する気概が足りなかったのだと思います。EC率が3%以下の超保守的なアパレル企業が生き残ると考えることのほうが不自然でしょう。
民事再生なので、会社が全くなくなる訳ではないと思いますが、若かりし頃必死で働いていた会社の破綻は、やはりショックです。働いていた時に得たものは大きかっただけに、残念でなりません。そのような環境に縁があったことを感謝したいと思います。ありがとうございます。再生がうまくいくことを切に願うばかりです。
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