自己責任論の否定は、努力の価値の否定ではない-私が"普通"と違った50のこと、あとがき-
あとがき
前回出した「私が"普通"と違った50のこと〜貧困とは選択肢が持てないということ〜」
本当にたくさんの方がコメントをくださり、尊敬してる方々もリツイなどしてくださって、本当に嬉しかったです。
本当に熱い感想をたくさんいただき、なんとも言えない感動を覚えました。サポートも18件いただき、驚きでいっぱいです。
3日間ほど無我夢中で書いたのですが、その後もいろんな思いが溢れたので、あとがきとして残そうと思います。
なぜ書こうと思ったか?私は自分の境遇を嘆いていない
私が今回、このエッセイを書いたのは、私はこんなに苦労をしている、と言いたいわけでも、悲劇のヒロインになりたかったわけでも決してない。
私の生い立ちは、もう私そのものだし、とうの昔に受容し、それが普通だと思って生きてきたからだ。
だから、その困難があって当然。常に息が苦しく、足元がぬかるんでいて。常に綱渡りしているような。
大袈裟かもしれないが、それが生きることだと思っている。
環境が異常でも、生まれてからずっとその環境なのだから、いまさらそれが特別だなんて思わない。
それに、人には人の地獄がある。これは私がとても大切にしている考えで、裕福な友人でも父親の不倫に悩んでいたり、毒親で苦労したりなんて姿はたくさん見てきた。人には人の、それぞれの地獄がある。
また、私は自分の特徴が、貧困家庭出身、ということだなんて、まったく思っていなかった。最初は、大学で学んだジェンダーや子育て問題、発展途上国のことについて問題意識があり、何かしら活動をしたいと思ってきた。
ー東京に出て、色んな方とSNSで繋がるうち、ある編集者の方にお会いした。
その方に、「あなたのバリューは貧困家庭出身であるということ。当事者目線のエピソードを発信して。」
そう言われた。メディアに携わる人たちに、本当の貧困の当事者はほとんどいない。当事者目線で語れるあなたの経験は貴重だ、とも。
そう言われても、正直半信半疑だった。
それから半年が経ったころ。コロナによる不況が世界を襲った。
そんな中、30万円の現金給付が検討された時があった。
その対象が、最初は非課税世帯(年収100万円以下)という情報が流れ、非課税世帯がトレンド入りした。
そして、
"そんな人いないに等しい"、
"まともに働いている人がバカらしい。"
"しかし調べてみると、意外と割合は少なくないらしい。日本の貧困率に愕然とした"
そんな様々な意見が寄せられているのを目にした。
年収100万。
父が障害者で、定職に就けなかった家庭の出身者として、その数字はとても身近なものだった。
自分の生い立ちは、普通の人からしたら想像もできない世界なのか。そう驚くと同時に、
見えない貧困は無いものにされる、
そう感じた。
あなたのバリュー(発信していくべきカテゴリー)は貧困家庭出身ということという意味がそのときやっと分かった。
生まれながらに経済的弱者という立場で感じてきたこと。
必死に生きていても、貧困を抜け出せないとはどういうことか。
周りと比較して感じる違和感。
これを言葉にして発信しよう、そう思った。
自分の辛さをひけらかすためでなく、おなじ境遇の人達の痛みが、無いものにされないために。
自己責任でしょ、努力が足りない、なんて、切り捨てられないために。
当事者が声を上げることの重要性
当事者が声を上げると、必ずと言っていいほど、その声をかき消そうとする人たちが現れる。無自覚の場合もあるが、客観的に見ればただのクソリプだ。(いまだにまともに受け止め傷付いてしまうけれど)
「そんなの特別じゃ無い。」
「努力でどうにかなっただろ。」
「相手を、社会を責めるのか。」
そんなふうに。
でも私は、当事者があげる声によって、見える世界を広げてもらう、想像力を持たせてもらう経験を多くした。
例えば性犯罪のサバイバーのトラウマ。
私はサバイバーではないから、性被害後も続く人生の、想像を絶する苦悩を知り、愕然としたものだ。
またLGBTの方々が生活していてあう偏見や障害。
知らなければないものとして済ませてしまっていたその痛みを、当事者目線で見つめることができる。
それはやはり、経験した人にしかわからない。
直に受けた傷。うまく伝わらない息苦しさ。それを描写し、オピニオンとして発信する。やはりそれはとても大事なことなのだと思う。
だから私はこれからも発信していく。
貧困女子、というワードの使われ方
貧困女子、というワードは、多くは生活苦から性産業で働く人たちの姿をセンセーショナルな話題として取り上げるものに使われる。
なにか仰々しいというか、どこかノンフィクションではないような、映画か、どこかの物語のような。
表現は正しいかわからないが、性犯罪のサバイバーの体験が、エログロコンテンツとして消費されるのに近い感覚を覚える。
私のエッセイを読んだ方からも、以下のような感想をいただいた。
「貧困」と言っても、その言葉で切り取られるのはほんの一部。その世界はとても深く広い。そして本当に多様だ。
だから、いろんな語られ方をされるべきだと思う。
私は貧困代表だなんてこれっぽっちも思っていない。
生まれながらの貧困もあれば、ある日突然、貧困に陥るケースもあるだろう。
特殊なものではなく、とても身近なもので、健康で文化的な最低限度の生活ができない人たちが、想像よりはるかに多くいることを知ってほしい。そしてその光景に慣れないで欲しい。
この日本にも、食べるものがない人がいる。寝る場所がない人がいる。進学を諦める人、若くして介護を担う人、病院に行くお金もない人。
そんな人たちに、少しでも思いを馳せて欲しい。
そんなことを思う。
だから私は私の目線で、角度で、当事者の声がより温度感を持って立体的に伝わるよう、発信の仕方を模索していきたいと思っている。
自己責任論の否定=努力の価値の否定ではない
自己責任論を振りかざす人には、いろんなタイプがあると思う。
一つ思うのは、努力して、苦しい立場を脱したり、結果を出してきた人ほど、自己責任論を語りやすいということ。
もし自己責任論を手放してしまえば、自分が努力で今の立場を得たことを、否定されたような気持ちになってしまうからだと思う。
実際、本当に身を削るような努力をして、必死に結果(学歴や収入など)を出している人も多いと思う。
しかし、私は自己責任論は強く否定したいが、努力の価値は肯定したい。
そこには、結果=努力でも、結局=ベース(生い立ちや生まれ持った能力など)でもなく、
結果=ベース+努力、または結果=ベース✖️努力だという、忘れられがちな前提があるからだ。
人は、ベース、または努力だけを見つめやすい。
死に物狂いの努力をしてきた人たちは、その努力が直接、結果に結びついているような錯覚に陥るのだと思う。
実際、そこには間違いなく、自分の努力だけではなく、ベース、もっと言えば運や縁、所得などといった環境全般といった要因がある。
学歴などが、顕著だと思う。
私自身、貧困家庭出身、現在もワーキングプアという点では紛れもなく社会的弱者だ。ただ、ある点では、強者にもなりうるという自覚がある。
例えば大卒であること。
それは私の努力だけによるものなのだろうか?
私は確かに死に物狂いで勉強した。努力した。
でも、奇跡的に借金できたから大学に行けた。家庭環境で進学を諦めた友人をたくさん見てきた。親族の介護で新卒での就職を諦めた人も見てきた。
だから私は、高卒の人に努力不足だ、なんで絶対に言わないし思わない。
人は自分が持っていないものには目を向けやすいが、持っているものは見えづらいらしい。
そこを見失えば、自分が持っているものを持っていない人に対して、努力不足だ、などと自己責任論を振りかざしてしまう。
生存バイアス、というものも同じようなもので、自分が貧困を抜け出したという結果を、努力によるものだと勘違いしてしまう。
ある意味自分の努力だけで結果を出せたと思うなら、それは傲慢では無いだろうか。
乙武さんの言葉で、マイノリティマッチョ、という言葉がある。
「――乙武さんが活動を続ける原点は、やはり社会を変えたいという思いですか?
そうですね。人の役に立ちたいですし、社会を変えられたらいいなと。ただし、“マイノリティ・マッチョ”になってはいけないと思っています。
障害者として生まれ育った境遇としては、私はおそらく(障害者のなかでは)強者になるはず。そういう人間が陥りがちなのが、「自分はこんなに頑張っているんだから、みんなもできるはずだ」という考え方なんです。
でも、それはすごく思い上がった発想ですよね。同じ障害者だとしても一人ひとり境遇は異なりますし、それは健常者にも言えます。
なかには家庭環境に恵まれなかった人もいるでしょうし、経済的な余裕がなかった人もいるでしょう。容姿で苦労をしてきたりした人もいるかもしれない。そういったさまざまな要素に目を向けず、「みんなも頑張れ」と言ってしまうのは乱暴な話。
そうしたことも踏まえて私が目指しているのは、誰にでもチャンスが与えられる社会です。」
ー私がもし今後、貧困を脱し、仮にある程度の所得を得られるようになったとしても、低所得者に対して、努力不足だ、自己責任だ、などとは絶対に言わない。
努力をすればきっと、ある程度環境は変わる。景色は変わる。
しかしその速度には個人差がある。乗り越えなければいけないハードルの大きさも。埋めなければいけない穴の深さも。
持っているカード、巡り合う人。
私たちは選べるものと選べないものの中で生きていく。
弱者が目の前にいるなら、そっと手を差し伸べて、寄り添いたい。
歪みを生み出してしまう社会を変えたい。
機会が平等な世の中に。真っ当に生きた人が、報われる世の中に。
健康で文化的な最低限度の生活を、すべての人が送れる社会に。
最後に
私は今、フルタイムで働きながら、編集アシスタントとして活動したり、細々と縁を繋いでライターとしてごくたまに記事を書かせていただいています。ノンフィクションライターとして、弱者の声、違和感を言語化していくのが夢です。
まだまだ貧困を抜け出すのには遠い道のりですが、見守っていただけると嬉しいです。
皆さんの感想で胸が熱くなり、発信する意味を改めて感じさせられます。
これからもよろしくお願いいたします。
ヒオカ
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