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振袖を着れない子どもたち〜貧困家庭の成人式〜

ーちょうど5年前の今頃、私は成人の日を迎えた。殺風景な田舎道に不釣り合いな色とりどりの花模様が浮かぶ。
お世辞抜きに、艶やかで、笑顔が光って見える幼なじみたち。
「わぁ、似合ってる!めっちゃ綺麗だね」
そんな言葉をかけると、友達は「ありがとう」と微笑んだ。
一緒に会場に入ると、受付のスタッフに迎えられる。
そのスタッフの姿を見た時、私の心は動揺した。
リクルートスーツ姿の女性スタッフと、私の服装が同じだったから。ー


成人式を迎える半年くらい前からだろうか。

大学の友達の間で、成人式の振袖の柄や色が話題にのぼりはじめたのは。
「私振袖緑にしてん!」「私赤にした!」
「ヒオカは何色にするん?赤とか似合いそうやん」

「え?、成人式?行かないか、スーツで出るかなぁ」
「なんで???振袖着んの?」
「うん、まぁな」

レンタルするお金が無いんだよ
そんなこと、言えなかった。


"普通"に擬態していた大学生時代の私。
お金がない故に、大半の女子は着るであろう振袖を着る、前撮りをするという選択肢がないこと。それを伝えたところで微妙な空気になるだけだ。


私には姉がいるが、姉は参加しないという選択肢を取った。

私も、最初は参加しないつもりだった。
しかし、地元の友達に強く誘われ、参加することを"決意"した。
スーツで参加したって惨めな思いをすることくらい、わかりきっていた。
でも、本音はやっぱり参加したかった。
ハタチという節目の年。
大人への入り口。
懐かしい友との再会。


式当日、私は上下しまむらのリクルートスーツ姿で参加した。唯一、左耳につけた300円のイヤーカフが、二十歳という人生の節目を迎えた自分への、最大限の祝福だった。

友達は、私がスーツ姿であることに触れなかった。
いつも通り、隣にいて、たわいもないことで盛り上がって。

それにどれほど救われただろう。
スーツ姿の私と一緒にいるなんて嫌だろう、そうも思ったけれど、友人はずっと一緒にいてくれた。
たくさんの友達と再会し、写真を撮った。私がセンターのものもある。
後で見返して、その対比に少し心は痛むが、いい笑顔で映っている。

地元のテレビが取材に来ており、私もインタビューに声をかけられた。
「大人になる抱負は?」
「私スーツですけど?」
「いいからいいから」
そう言われて、一度はカメラの前に立つも、やっぱりなんだか惨めで、「やっぱやめます」
そう言い残して、逃げるように去った。


私にとって成人式は特別な意味合いがあった。
3年間いじめによる不登校で息を潜めて暮らした、中学生時代の暗い過去に蹴りをつけること。
私をいじめた子たちに堂々と会って、過去の私と決別するんだ。
その時がきたが、思ったより緊張せずに顔を合わせ、何も言わずにすれ違った。
もう、萎縮して気を遣った私の姿はそこにはない。

なんだか、吹っ切れた気がした。陰鬱で、冷たいまま止まった時が、動き出したようだった。


成人式に参加して、本当によかった。そう思えた。


成人式は人それぞれの意味を持つ。

いろんな理由で参加しない、できない人もいる。

その理由の中に、振袖が着れないから、というものもあるのも事実だ。

私もきっと、友達に強く誘われなければ、参加を諦めていただろう。

それくらい、"晴れ着を着ること"は大きな意味合いを持つのだ。


その後、はれのひ事件が世間を騒がせた。
晴れ着を着れなかった子達を思うと胸が痛い。
しかし、初めからレンタルする選択肢がない子達もいることが、もっと知られてほしいと思う。

世間の片隅で、「当たり前」や「普通」を手に入れられない子たちがいることを。


あれから5年経った今でも、時々当時を振り返っては、晴れ着を着られなかった切なさが胸を掠める。

コロナ禍で成人式が開かれなかったり、延期されたり。
本当に今年は悲しい年だ。

いろんな思いが交錯する中で、きっと、私と同じように貧困ゆえに振袖を着れなかったり、前撮りができない子達がいるのだろう。

どんな家庭に産まれても、晴れ着が着たいと思う人は着れらようになって欲しい。
マジョリティが手にする当たり前が、お金と引き換えに手が入るという事実。これは普遍的で、振袖に限ったことではない。

きっとこの先も、胸の奥に残るほろ苦い思い出。人生にたった一度の、はれの日のこと。

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