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ないものにされる痛みを可視化するーー『メイドの手帖』と「書くこと」について

私は、父が精神障害を抱えて障害者雇用やアルバイトを点々とし、時に無職という環境で育った。地方の貧困家庭で育ち、生い立ちから貧困の渦の中にいた私は、『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』を読みながら、冷たい記憶が呼び起され、とても胸が痛かった。国も違えば立場も違う彼女の物語だが、貧困の沼で喘ぎ、次から次へと降りかかる困難に翻弄される姿は、あまりに共感する部分が多かった。そこで抱く感情や陥る精神状態が酷似していたからだ。『メイドの手帖』は、貧困の当事者である一人の女性の物語だが、貧困の実態を理解し、社会の理不尽さへの想像力を持たせてくれるものだと感じている。

貧困とは負のループから抜け出せないということ

物語の主人公であるステファニーは、シングルマザーになったことで、最低賃金でメイドとして働きながら娘を養わなけらばならない状況に追い込まれる。
病気をしても休めず、仕事を詰め込まなければならないこと。働くために必要な、健康を守る環境を作ることに投資できないということ。仕事を選べないということ。現場で起きる理不尽を飲み込まなければならないということ。
ステファニーが体調を崩しながらも休めず、劣悪な住環境によって娘までもが病気になっていく様は、胸が痛いが、貧困の実情をよく映し出している。
環境からくるストレスや、働きづめによって体を酷使した結果、体調を崩し医療費がかかり、仕事も減らさざるを得ない状況に陥ったりする。
これは、当事者にならなればわからない現実である。
私自身、初期費用が払えず格安シェアハウスに住み続けた結果、不眠症になり心療内科に通い、またさらに薬の副作用から仕事に支障が出ていた。この負のループから抜け出せないのは貧困の一側面である。


「貧困は恥」という風潮がもたらす弊害

貧困は恥、貧困は自己責任という考えは、ステファニーが暮らすアメリカでも、日本でも蔓延しているようだ。
P230(6行目)「まるで、意図的にシステムをかいくぐって、アメリカ市民が税金として支払ったお金を盗んだかのような言いようだった。」
適切な支援を受けている人に対して向けられる偏見の目。日本でも生活保護受給者への偏見は根強く、生活保護を受けることに対して心理的ハードルを感じる人も少なくない。
日本では生活保護を受給できる所得水準でも、実際に受給している人の割合はかなり低い。
支援を受けるのには心理的、物理的に多くのハードルが存在しているのである。

また支援を受けるにはたくさんの書類、ステップが必要で、当事者を疲弊させる。ステファニーはその中でもめげずに支援を活用していくが、その過程でも無理解な人たちによる冷たい態度によって心を削られていくのである。


格差社会に慣れてはいけない 

貧困に喘ぎながらもメイドとして働くステファニーと、そのクライアントの暮らしぶりとの対比は、格差社会を象徴するものである。
余剰がある人たちの歪だが絢爛で色とりどりの暮らしぶりと、持たざる者の質素でよどんだ、灰色の世界。
この正面から見たら気が狂いそうになる現実に、私たちは慣れすぎている。しかし私たちはこの格差社会に慣れてはいけない。この世の中はあまりに理不尽な格差が詰め込まれていて、今も健康で文化的な最低限度の生活を送るという人権が保障されない人々が、同じ空の下、呼吸し、今もその痛みに打ち震え、体をきしませながら懸命にその命を保っているのである。明日の見えない不安や、生きることの意味を問う瞬間に狂わされながら。

誰もが生きづらさをを抱えている。私たちの生活を脅かすのは、援助を受ける弱者ではなく、富の再分配を円滑に行えない社会体制である。怒りを向けるべきはそこなのである。貧困に転落するのは惰性で生きる愚かな人たちではない。人格を持ち、懸命に生きている、ただの人間なのである。

貧困を抜け出すために必要なもの 

いつまで続くかわからない地続きの貧困。それを目の前にした時の絶望感、虚無感、もはや擦り切れた焦燥感。そんな感情は、日々心と体を削り、むしばんでいく。

最初から整った土地から積み上げていく人たちには実感がわかないであろう。
しかし貧困について発信したり、知人や友人に相談したりすると、「なぜそんなに効率がわるいのか」「もっとこんな方法をやればいいのに」「努力不足だ」そんな言葉や批判を投げかけられる。
現実の当事者は、貧困を抜け出す術をインプットする余力もなく、当然アウトプットする余力も残されていない。道を探す体力も残されていない。
ただ今を保つために、実質的に死なないために、押し寄せる理不尽な現実に身をゆだね、命を削り生きていく他ないのである。

そんななかでも希望を捨てずに生き抜いて行くためには、他者とのつながり、心が通う関係性が必要不可欠である。ステファニーは安定した住環境や仕事ももちろん求めたが、常に渇望していたのは心の通う人とのつながりである。

自分ではない他者を本気で思い、一歩踏み出して起こす些細なアクションの積み重ねが、誰かを生かし、可能性の扉をこじ開け、負のループを断ち切る契機になるかもしれない。ステファニーを幽霊ではなく、血の通った人間として扱った数人のクライアントのように。
ステファニーの話を聞き、味方になってくれたグランマ・ジュディのように。
そんな善良な市民が一人でも増えることを私は切実に希求する。

私自身、あらゆる手段でいろんな人のもとを訪れ、家族と呼べる関係を築き上げてきた。悩めば相談に乗り、食事や物資、情報や仕事を提供してくれる人たちだ。また記事にして発信し、声をあげることで、気にかけてくれるフォロワーさんが大勢できた。
助けを求めることは恐れを伴うが、一歩踏み出した先に、想像もしていなかった多くの手が差し伸べられた
誰かが助けてくれるかもしれない。その可能性の扉を、自らの手で閉じてしまうのはあまりに切ない。貧困当事者であることの困難に疲弊した状態で、それでも他者を信じることは怖れや、時に痛みをも伴うが、その一歩を踏み出してほしい。

また、貧困を断ち切るには、初期投資が必ず必要である。ステファニーは、生活を変え、よりよい未来に投資するため、仕事を改善し、借金をする決断をする。これは本当に大きなリスクを伴う決断である。しかし、初期投資をしなければ負のループから抜け出すことはできない。多くの人が、初期投資をすれば状況が改善するとわかりながらも、リスクを怖れたり、またそのお金や気力を得られずに、心ならずも劣悪な環境に身を置き続ける以外ないという現状がある。

私自身、劣悪な住環境から体調を崩し続けたが、一人暮らしをする、という決断をし、多くの人の金銭、物資の提供を受け、実現することができた。もちろんランニングコストは増えるし借金もしたが、それによって体調は安定して医療費を減らし、仕事にも集中できるようになった。初期投資によって負のループを断ち、生活を向上させることができる。そのためには初期投資を支援する人、制度、そして本人の勇気が必要不可欠である。


何重もの壁を越えなければ、発信できないという現実

弱者は声を持たない。声を発したとしても、かき消される。それが今の世の中の実情である。
弱者が声をあげ、それが届くためには何重もの壁がある。
まず、自分のつらい過去を思い出すのには痛みを伴う。
また、教育において格差があるため、弱者は言語化するスキルを養う場が与えられないという不条理な現実。
さらに、やっとそれらの壁を乗り越えたとしても、その声は貧困叩きによってかき消されてしまう。貧困は恥、貧困は自己責任という認識が蔓延している社会なのである。また、貧困の実情が正しく認識されていないため、努力すれば抜け出せるはずだ、と思い込んでいる人は多い。そのため、貧困の当事者が声をあげると心ない言葉が投げかけられる。

しかし、弱者が声を持ち、それがもっと発信されなければ、多様な声、世の中の歪みが可視化されることはない。

いつも、世の中は生まれながらにベースがある人たちによって形作られ、動かされていく。その人たちの”普通”を基準に作られた仕組みの中で、取りこぼされる多くの人々の声。それを拾い集め反映させることが、多くの人の生きづらさが解消される有効な方法ではないだろうか。
『メイドの手帖』は、そういう意味でも、当事者の貴重な発信である。


必要なのは着色されたエンタメではなく、当事者の肉声

メディアが取り上げる貧困は、いつもセンセーショナルなものばかりである。過剰に煽られたタイトルや内容。それが人々の関心を集め、消費されるのである。性被害者の実体験がエログロコンテンツとして消費されるそれに似ている。
しかし、貧困はエンターテインメントなんかではない。
今を生きる、みなと同じ一人の人間の実話であり、私たちが生きる社会構造の一部なのである

本当に必要なのは着色されたり大げさに煽られた文章ではなく、一人の人間の肉声であり、生きた事実そのものなのである。『メイドの手帖』は、大げさに飾られたものではなく、ただ淡々と、貧困の渦の中で翻弄される一人の女性の生活が綴られている。そこからにじみ出る悲哀や孤独、そしてそれでも生きようとする力。そこから見えてくる格差社会の実情。こういった個別の、本人が綴る物語こそ、貧困の実情を正しく伝えるものだと感じている。


書くことで生きる力に変えていく

私自身、貧困の当事者としての発信を続けている。
私が言葉で表現する喜びを感じたのは中学3年生の時だ。いじめによる不登校を経験し、死にたい毎日を過ごしていた日々の真ん中に、突然現れた表現の場。スピーチ大会に出る機会があり、500人の聴衆を前に私は語り切った。自分の言葉で、誰かの胸を震わせることができる。「あぁ生きている」、そう実感する瞬間だった。それは私に言葉で表現する喜びを刻みこんでくれる出来事だった。

人生、理不尽や不条理に直面し、絶望することだらけだった。しかしその現実に抗うことなく、ただそれを当たり前のものとして受容して生きてきた。
しかし、そんな絶望も、胸をかきむしるような悔しさも、発信することで、誰かに新しい景色を提供できる。「人生の向き合い方を変えるほどの文章でした。」そんな感想が来た時、私の歩んできた途方もない困難な道も、意味のあるものだと思えた。どんな絶望や痛みも鮮やかに彩って、生きる力に変えていくのだ。

書くことは、私たちの生きてきた過程から、新たな力を生み、それは私たちを照らし、新たな次元へと押し上げてくれる。
そして、この分断されきった世の中に、想像力を持たせる、橋渡しとなる、尊い作業だと信じている。私は今日も書き続ける。

ステファニーは作家になることを夢に抱き、日々の出来事を書き綴っていた。書くということは、灰色の日常の中で彼女を照らす光だったのだろう。

彼女は書くことで自らの生活を変えることに成功した。稀有な体験ではあるが、私自身も書くことで人生を変えることができた。記事が注目を集め、多くのサポートが集まった。格安シェアハウスから一人暮らしができるまでになり、パソコンを買うこともできたのだ。
書くことは精神的にも、また経済的にも、人生を変える、ドラマティックな可能性を秘めていると思う。


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