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[一期一会 #33] 歯向かう

自分のことは自分で決めたい.

しかし,今の力(≒カネ)のない私には少なくとも完全な意味では,それはできない.力によるお墨付き,力の説得は常に必要だ.

その点で,私は現実を見誤っているかもしれない.心はまだまだ子どもであるのかもしれない.

というのは,大学生になってからというもの,多用するようになっているのが,既成事実に対して承認をもらうというプロセスだからだ.つまり,自分で判断したうえで,初動はとりあえず報告せずに遂行して,必要になってから事後報告してお墨付きを得るというプロセスだ.私なりに歯向かっているということでもある.(いや,それよりも上述のようなうがった見方の方が態度としては尊敬がないし横柄だから問題かもしれない…)

別にある程度現実的に考え,また,理想をロジックを外し過ぎずに丁寧に言語化してそれをもとに説明をすれば,否定されて修正を強いられるというものでもないこともわかっている.障壁はそれなりに設けられているとしても,基本的に敵ではないし,常に応援してくれる存在であることもわかっている.(だからこその甘えともとれるが.) 

では何が原因か.

振り返ると,人,特に目上の人や自分よりも能力が高いと感じる人や尊敬している人に対して,何かをお願いするということが気持ち的に苦手なのだなと,感じる.
自分が何かを返す能力があるわけでもないのに,「与え」ていただくことに非常に落ち着かない心地になるのだ.

しかし,一定当たり前なのだ.
使い古されているように思われたりもするかもしれないが,よく社会学や人類学で参照される贈与論が考えるきっかけになろう.マルセル・モース,レヴィ・ストロースといった人たちの話だったと記憶しているのだが,太平洋の島々における贈与のやり取りのエスノグラフィーをもとに,考えられたセオリーだ.

彼らの論においては,比較的超自然的存在(神や霊といったもの)の役割についても言及されているが,ここでは少しシンプルに捉えることとしよう.
贈与には義務が生じるということがカギだ.
時と場合によっては贈与することも(社会的に)義務になるし,それを受け取ることも義務だし,受け取ったら返礼として贈与をすることも義務となるのだ.なお,この返礼の際には,受け取ったものよりも多くのものを返すことが,力の証明になり,逆に言えば,それができなければ相対的に自らの地位が相手より低いことを示すことになってしまうのだ.

お金もなければ,幸せにできるだけの人間性もまだまだないし,私には少なくとも今は何かを返すだけの力はない,義務さえ果たせないという無力感を,身にしみて感じているところなのだ(両親・家族に関して言えば,まだその時期ではないという考え方もできるだろうが).
結果的に,卑屈とまではいわないが,低姿勢で臨ませていただいている,その一つの派生として,歯向かうという礼のない行動をしてしまっているということでもあるのだと思う.

急ぐことはない.と,分かっているのだから,それを血肉化して,素直さを取り戻してほしいものである(いや,自分事…).

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