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【第八夜】空想クラフトコーラ屋

最近は風が落ち着いて、静かな日も増えてきた。
たまに突風が吹く日もあるけれど、それはもう春が来ている証拠のようなもの。
冬から続いた西風の季節が完全に終わるまではあと1ヶ月ぐらい。
今は大気が新芽のにおいでぱんぱんになっている。心なしか、目と鼻がむずむずする。

だだっ広い野原やヘリポートの入り口を横目に、山に続くアスファルトの道を歩く。
昨日の夜雨が降ったからか、土のにおいまで立ち上ってくるように感じる。
 
金木犀らしき垣根に沿って歩いていたら急に木が途切れて、足を止めた。未舗装の横道。
道のはじまりに風見鶏を模した看板が立っている。
リアルな木彫りのおんどりが道の奥を向いているのにつられて、その視線の先に目をやる。
小さな建物が見える。うっすら音楽が聞こえる。
 
小道を進んでみると、木立の中に小さなログハウスが建っていた。煙突からは煙。
建物の周辺や真上は木々が取り払われていて、光が天蓋のように降り注いでいる。
グリム童話みたい、と思う。
階段を3段上がって「OPEN」の札が出ているドアの前に立つ。
階段の脇には4畳ほどの畑があり、どこかで嗅いだことのあるにおいがふんわり香った。
 
ドアを開ける。途端に全身がスパイシーな香りに包まれる。スパイシーで甘い香り。
正面には小さな引き出しが無数についた木の棚。
大人が抱えるぐらいの大きさのガラス瓶におさめられた濃い茶色の液体も目に入る。
プシュッと炭酸が弾ける音。シュワシュワと一緒に、グラスに氷が当たる音がする。
 
ここは島のクラフトコーラ屋。
 
 
想定外の展開に戸惑いつつ、気を取り直してじっくり店内を見渡す。
店内はほぼ正方形で、入り口は下の辺の中央に位置している。
まず目の前にとても大きな木のテーブル。落ち着いたトーンの茶色で、重厚感がある。
背もたれと座面が布製のアウトドアチェアが、長辺に5脚ずつ、短辺に1脚ずつ、合わせて12脚。
布は黒色で、落ち着いた雰囲気。
テーブルに配置されているB4サイズぐらいの黒色の皮表紙は、メニューだろうか。
天井からは透明のガラス製のランプシェードの照明が下がっている。等間隔に横一列で3個。
 
奥にはカウンターが設えられている。左端には骨董品のようなレジスター。
先ほど真っ先に目に入った大きな瓶は、カウンターと内側の調理場との境界線のように置かれている。
3つ横並びになっていて、左から右にかけて色が濃くなっていく。
澄んではいなくて、それぞれ複雑に濁っている。
調理場側に注ぎ口がついていて、オーダーが入ってからグラスに注いでくれるようだ。こちらから見るとただの大きな瓶。
その瓶たちの右には、大きな円柱形のビーカーに細いガラス管やチューブが複雑に接続されている実験器具のようなものも。
ビーカーの下に電磁調理器がセットされているところから察するに、蒸留器だろうか。
今は稼働していない。

調理場はというと、広い調理スペースと大きなコンロ、深めの流し台、すべてよく使いこまれた感じ。
コンロは4口で、今はすべてに鍋がかかっている。一番右は圧力鍋だろう。
外気に負けないぐらいの濃い植物の香りと、スパイスの香り。
 
背面の壁は腰高から上の部分がたくさんの木製の小引き出しで埋め尽くされている。
幅20センチぐらいの引き出しが横に12個、それが3段。江戸時代の薬問屋のような感じ。
それぞれ持ち手の上に金属製の名札プレートがついている。スパイスの名前が見える。
シナモン、カルダモン、八角、コリアンダー、サフラン、月桂樹、ジャスミン…初めて目にするものもたくさん。
 
棚の下には業務量冷蔵庫が横並びに4台。
開閉の度に、無数の保存容器に柑橘類やいちじく、各種ハーブがきっちり収められているのが見える。
棚と冷蔵庫の左にはこんもりドーム型のピザ窯があり、ピザをちょうど焼成中のようだ。
香ばしい小麦のにおい。
 
席について、メニューを開く。ゆるめのヒップホップがかかっている。
コーラシロップは「冬至(ゆず)」「立春(椿)」「啓蟄(菜の花)」の3種。
割り方は「氷」「湧き水」「炭酸水」「お湯」「焼酎」の5種。組み合わせ可。
ピザは日替わりで、今日は「ジェノベーゼ」「じゃがチーズ」「桜海老」「ソーセージエッグ」の4種。
シロップは啓蟄(菜の花)、個人的にコーラは炭酸飲料の位置づけなので炭酸水で、ピザは桜海老にしてみた。
オーダーして、メニューの後ろにある「クラフトコーラができるまで」を読み始める。さっき見た階段脇の畑、ハーブ園だったのか。
先に席に置かれたお冷を飲もうとしたら、さりげなく、しかしはっきりミントが香った。
 

晴れたりくもったり、暑かったり寒かったり、春はなかなか安定しない。
何もかも憂鬱に思えたりするし、朝起き上がっても体が世界になじむまで時間がかかるような気がする。
でもこうしてじっくり植物とスパイスと砂糖が煮込まれているにおいを嗅いでいると、すこしずつ呼吸が整ってくるのがわかる。
今の季節だけのにおい。それを吸い込み、胸いっぱいに満たす時間。
 
また春がめぐってきてしまった、と思う日もあるだろう。眠れなくなる夜もあると思う。
そういうときは大きなため息をついて、ついでに体の中の空気を吐き切る。
そして、ゆっくり息を吸う。
新芽のにおいで体が満たされるまで、何度も繰り返す。
憂いや悩みが甘く溶けるまで、何度も繰り返す。


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