ぼくは「君が代」が歌えない
「君が代」が好きだ。
勇壮さや華やかさに欠けるけれど、流麗でどこか寂寥感漂う旋律は、いかにも日本的で美しいと思う。海外のスタジアムで代表選手が一列に並び「君が代」を歌う。スタンドで揺れる日の丸の小旗。そんな光景は、なんど見ても胸を熱くさせるのに十分だ。
僕にとっての「君が代」「日の丸」とは、なんだろう。
もう、10年以上前の話になるけれど、神宮球場でプロ野球の日米対抗戦を観た。試合に先駆けて両国の国歌が流れる。場内アナウンスは「脱帽」と「起立」を促す。が、僕は席を立たなかった。立つ必要がないと思ったから、そのまま座っていた。
突然、後ろから声をかけられる。「おい、そこ、立てよ」。振り返ると短髪で赤ら顔の男が、こちらを睨みつけていた。ちょっとした口論になった。立つか立たないかは個人の自由だ、というようなことを言い返したと思う。相手は「それでも日本人か!」と罵声を浴びせかけてきた。取っ組み合いになることはなかったし、すぐに国歌斉唱が始まったから、言い争いはそこで終わった。
直後に反省した。第三者を不愉快にさせるくらいなら、自分の信条など取るに足りないことで大人気なかった。それ以来、公衆の場で「起立」を促されたら、席を立つようにしている。けれども、自分にとっての日本とは、「君が代」でもなければ「日の丸」でもない。
いまの季節なら、縁側で食べるスイカ、かたわらには蚊取り線香。遠くから聞こえる花火の音。金魚すくいとベビーカステラと焼きそばの匂い。朝顔に水をやる陽に焼けた少年。プールから見上げる入道雲と子どもたちの歓声。かき氷、甲子園のサイレン、蝉の鳴き声、遠雷、そして、夕立。
そのどれもが「私にとっての」日本だ。ありふれた日常ではあるけれど、いまこうして書き起こしてみると、この国に生まれてよかったなとも思う。
100人の人がいたなら100通りの好きな日本があっていい。いや、むしろ、それが自然なのだとも思う。それをなぜ「君が代」や「日の丸」を踏み絵にして、愛国心を探ろうとするのだろう。なぜ「君が代」「日の丸」でなければいけないのだろう。そもそも、愛国心は他者に強要され抱くものではない。
先日、森喜朗元総理が、リオオリンピック・パラリンピックの壮行会のスピーチで「国歌も歌えないような選手は、日本の代表ではない」と苦言を呈した。もし本当にそう思っているのなら、派遣選手の選考基準に「君が代を歌えること」と付け加えたらいい。おそらく、笑い者になると思うけれど。
しかし、本当は笑いごとで済まされない。国家が国民の愛国心を測ること、その裏側には愛国心の強要という目論見があることを忘れてはならない。国家を歌わないことで、愛国的ではないと烙印を押され、やがて切り捨てられてゆく。
ひとりひとりには、ひとりひとりの大好きな日本がある。そして、それは、ひとりひとりの心の中にあるから、ひっそりと目立たないだけだ。「君が代」をいくらさがしても、あの夏の日はどこにもない。(2016.7 記)
painting:michael borremans
かまーん!