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Cの物語

大人の話を息を潜めフスマ越しに聴くのが好きだった。話がミステリアスであればあるほど胸を躍らせた。不思議なことに、この手の話は数十年たったいまも鮮明に覚えている。

ぼくは、北海道の室蘭という地方都市で生まれ育った。町の中心から高台に向かって急勾配の坂を登り、墓地を通り抜け、さらに坂道を登る。丘の中腹に張り付くようにして実家があった。家を出て坂を下ると漁港だ。走って2分、もう目の前は海。

小さな漁港で、漁が休みの日でも係留している船はせいぜい20隻。湾の左右から岬がつき出していて、地図で見ると全体がアルファベットの「C」の形をしていた。僕らは、Cの中で友だちをつくり、泣き、笑い、恋をして、少しずつ大人になっていった。

Cの「上端」は岩壁だ。波が岩を長い時間をかけて削り、洞窟を作った。中に立ち入ることは固く禁じられていた。潮の流れが速く、子どもが落ちるとまず助からない。もうひとつの理由は、水死体が漂着するからである。

ここから先が「フスマ越しの話」だ。

流れ着いた亡骸は、警察署に運ばれ検視が行われる。その後、行方不明者のいる家族が呼ばれ、一組ずつ遺体と対面する。遺体の多くは衣服を剥ぎ取られ損傷が激しい。家族であっても、ひと目で身内だとわかるのはまれだ。では、なぜわざわざ家族と会わせるのか。鼻血である。遺体は、肉親に会うと鼻血を流す。警察は、その鼻血を根拠に本人を特定し、事件性がなければそのまま家族に引き渡す。

子ども心にも「嘘だろ」と思った。

先日、ふと、この話を思い出した。まさか、と思いググる。するとこの手の話は、自分が生まれ育った町に限ったことではなく、全国各地に散在していることを知った。ここでその真偽を確かめるつもりはない。自分には、法医学の知識があるわけでもないし、民俗学の専門家でもない。さらに付け加えるなら、もし「本当のこと」がわかったとしても、そこになにか特別な意味があるとも思えない。

世界は明るくなった。

それは、照明によって物理的に光度が増したという意味だけではなく、科学の進歩は、それまで光が届かなかった暗闇を真昼に変えてしまった。闇の中で、身を寄せ、息を潜めてなにやら囁き合っていた「魔物」は住処を追われ、何処へと消えてしまった。こうして世界はつぎつぎ浄化されてゆく。こうとも言える。明るい世界は、単調で、退屈で、どこか憂うつですらある。

小学生の頃、誕生日かクリスマスなのかは忘れてしまったけれど、トランシーバーを買ってもらった。うれしくて布団の中で一緒に寝た。けれども、友だちとの交信はじきに飽きた。ひとり屋根や木に登っては「誰か」に話しかけ、「誰か」からの応答を待ち続けた。タクシーや船舶無線がときどき混信したけれど、「誰か」からの反応はなかった。

大人になったいまも、あのわくわくした感じを忘れられずにいる。この世界にはどこかに「破れ」や「歪み」があって、魔物がいるとどこかで信じている。ここに小さな物語を記した。この物語も暗闇に返そうと思う。Cの洞窟へ。暗く静かな元いた場所へ。 
painting:O JUN

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