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真理に辿り着く方法、デカルトの『方法序説』 ≪目安時間8分≫

『方法序説』は1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書です。

 刊行当時の正式名称は「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話」で、デカルトが方法論の発見・確立に至るまでの経緯が述べられています。

我思う、ゆえに我あり


「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉は、デカルトの『方法序説』で提唱された命題です。

 デカルトは真理の探究にとりかかろうと望んだとき、ほんのわずかな疑いがあるものはすべて絶対に偽なるものとして投げ捨て、そうしたうえで、まったく疑えないものが何かを見ることにしました。

 デカルトはまず全てを疑うところから真理の探究にとりかかったのです。ここでいう全てというのは、目にしたり触れたりできる物理的世界のあらゆるもの(自分自身も含める)から、目を閉じたときや眠っているときに現れる精神的世界のあらゆるもの(自分の意識も含める)という意味です。

 こうした懐疑的な探求の末、デカルトはついに一つの真理にたどり着きました。それが「我思う、ゆえに我あり」です。

 これは、「考えることができる我は、まちがいなく我である」という考えです。ここでいう「我」の本質は、ただ考えるということ以外の何ものでもなく、存在するためになんらの場所をも要せず、どんな物質的なものにも依存しないものとします。つまり「我」は精神的に認識される「我」であり、それは夢の中の自我としての「我」でもあり、目を閉じたときの精神的仮想世界に存在する「我」でもあるということです。真理的な「我」は物質的世界に依存しない存在ということです。

二元論としての我

 精神を物体から分かれているものとして捉えることを二元論といいます。たとえ「物体の我」が存在しなくても、「精神の我」は我の精神があるところから離れられないのです。ちょっと複雑になってきましたね。

 簡単にいうと、物質的世界に「我」が存在していなくても「精神」としての「我」は必ず存在するということです。もしあなたの身体が存在しなかったとしても、色々考えることができているあなたは必ず「我」として存在しているのです。

 このようなことから、デカルトは夢のなかの我も、目が覚めているときの我も、考えることができる我は間違いなく我だという真理にたどり着きました。

余談 荘子『胡蝶の夢』

 東洋哲学の代表的な書物『荘子』にこんな話があります。

夢の中で蝶としてヒラヒラ飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか。

 もしデカルトなら、「あなたの物理的世界の姿が人間であろうと蝶であろうと、精神的世界のあなたがあなたの本質である」と答えるかもしれませんね。

真理にたどり着くための方法論

 デカルトは具体的にどのようにして「我思う、ゆえに我あり」という真理にたどり着いたのでしょうか。『方法序説』にはそのような真理にたどり着く方法が丁寧に書かれています。

 自分が明証的に真と認めた上でなくてはいかなるいものをも真として受け入れないこと、言い換えれれば注意深く速断と偏見を避けること。

 わたしたちが起こすさまざまな間違いは「速断と偏見」から生まれると考えられます。デカルトは「物事を判明に認知しないうちに、早まって肯定否定の判断を下すことから間違いは起こる」と説明しています。

自分が吟味する問題のおのおのをできるかぎり多くくの、しかも問題を最もよく解くために必要なだけけの数の、小部分に分かつこと。

 どんな難しい問題でも、簡単な問題の積み重ねです。何かを探求するときはなるべく細かく分けて一つ一つを簡単にしていきましょう。

自分の思想を順序に従って導くこと、最も単純で最最も認識しやすいものから始めて、少しずつ、いわわば段階を踏んで、最も複雑なものの認識にまでのぼっていくこと。

 先程細かく分けた問題を、最も簡単な問題から順に解いていきましょう。

何ものをも見落とすことがなかったと確信しうるほほどに、完全な枚挙と、全体にわたる見直しとを、あらゆる場合に行うこと。

 デカルトは哲学者でもあり数学者でもあります。以上の方法論は、哲学でもそうですが、数学にも応用できそうですね。

組み立てられた考えの修正方法

 上記の方法を用いてすべて解き終わった後に、「待てよ…全然違うやんけ…間違いだらけやんけ!」と間違いに気がついてしまった場合の修正方法もデカルトは考えました。

 いったん組み立てられた考えというのは、建物と同じで簡単には組み立て直せないものです。建物を建てるときは固い地盤まで釘を打ち、基盤をつくります。そして鉄骨の骨組みを下から組んでいき、ビルを建てます。

 考えを組み立てるときも同じです。まず前提条件で基盤をつくります。そして鉄骨の骨組みを組むように、理論を組んでいき、一つのまとまった考えを構築します。

 このようにしてできあがった考えを大きく覆して、新しい考えを構築し直すということは、せっかく建てたビルを壊して、その隣にまたビルを建て直すことと同じです。新しく建て直したビルは早急に建てられたものなので、少しの地震でも倒壊する危険があり、その倒壊はひどい結果を生んでしまうでしょう。

 人に何か言われたときに、あまり深く考えずに自分の意見を変える人がいますよね。そういう人は考えの基盤を持たない人だと言えるでしょう。

 たとえば会社の経営が上手くいかないとき、ほかの上手くいっている会社をみて「あの上手くいっている会社の経営方針を真似したらいいんだ!」とあまり深く考えずに判断する経営者は、自分のビルの建設を放っておいて、基盤がない倒壊しそうなビルを建ててそこに住み着くようなことをしているのです。そのビルが倒壊しそうになると、またすぐ隣に同じようなビルを建てるといったことを繰り返し続ける羽目になってしまうでしょう。

 最もよい修正の仕方は、ほかのより良い考えをとり入れることや、前と同じ考えでも一度理性の規準によって正しく整えた上で取り入れることです。

 建物に欠陥が見つかった場合、建物を壊して建て直すのではなく、その欠陥だけを直せばよいのです。その欠陥の直し方は、新しい部品に交換しても良いですし、部品を修理して戻す方法をとっても良いでしょう。大きな物事ほど小さなところから直すことが大事です。さまざまな困難は小さなうちに見直すべきなのです。

後悔がなくなる方法

 心弱く動かされやすい人や、上記の経営者のように、ある時にあることを良いと認めてあやふやな態度で実行し、あとになってそれを悪かったと後悔ばかりしている人がいますよね。『方法序説』では、そんな後悔の念から脱却できる方法を提唱しています。

行動においてはできる限りきっぱりした態度をとることであり、どんなに疑わしい意見にでも、いったんそれをとると決心した場合には、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらない態度でそれに従い続けることだ。

 たとえば森に迷いこんでしまった場合、あちこち迷い歩くべきではなく、また一つの場所にとどまっているべきでもありません。常に同じ方向に、できるかぎりまっすぐ歩むべきであって、その方向を選んだことが、はじめはたんなる偶然にすぎなかったとしても、少々の理由ではその方向を変えるべきではありません。たとえ望む場所には行けなくても少なくとも最後にはどこかにたどりつき、それはおそらく森の真ん中よりはよい場所なはずだからです。

 どちらが本当に正しい意見か分からないときは、そのときに、より確かだと自分が思うものをとるべきです。そしてそれをとることを決心したら、それが確実なものであると信じて、それに従い続けることが後悔の念から脱却できる方法なのです。つまり判断に迷ったら自分が信じた道を突き進めばいいということです。

デカルトの生き様

 デカルトは生きている間に自分が書いたものを公表しようとしませんでした。その理由はデカルトの探求心があまりにも情熱的だったからです。つまり、自分が書いたものがおそらく受けるであろう反対や論争、名声などのために、自己を教育するために予定している時間を失ってしまうようなことになると困ると考えたのです。

 デカルトは反対論についてこのような意見を述べています。

「たしかに反対論は有益かもしれない。自分の誤りに気付くだろうし、反対論によってよりよく理解するにいたるだろうし、一人よりも多人数のほうがいっそう多くを見うるだろうし、自分の見出したものを用いて自ら新たな発見をし、それで助けてくれるだろうからだ。しかし今まで自分がみてきた人々の反対論は、自分がすでに予見していたことか、問題からひどくかけ離れた事がらだった。」

 たしかにデカルトほどの思慮深さだと、人々の反対意見のほとんどはすでにデカルトが予見していたことだったのかもしれません。では問題からひどくかけ離れた事がらだった、というのはどういうことかというと、論争の性質上、問題からひどくかけ離れた事がらになりやすいということです。

 論争とは建設的な意見のやり取りによって、新しい答えを見つけようとするものではなく、相手を言い負かすためのものです。つまり、論争で相手を言い負かそうとしているときは、双方の理由をはかりにかけるよりは、まことらしさに物をいわせようとして、むきになっている状態ということです。そんな状態では、論争という手段によって真理にたどり着くことはできないとデカルトは考えたのです。

まとめ

 デカルトは方法的懐疑という、この世に存在する真実らしく見えているものの不確実であるなど疑う余地が少しでもあるならば、疑う余地があるとして否定していく方法を徹底的に行なっていくことで「我思う、ゆえに我あり」という一つの哲学原理に到達しました。

 これはアインシュタインの相対性理論や、ダーウィンの自然淘汰による進化論と同じように、宇宙のどこに行っても変わらない普遍の原理だといえるでしょう。

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