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鈴木 雅貴「『ハレ』の日の仕掛け人」

1.グットデザイン賞を受賞したプロジェクト

1957年に創設された日本唯一の総合的なデザイン評価・推奨の仕組みである「グッドデザイン賞」

これまで多くのデザイナーや企業がノミネートし、いままでの受賞件数は5万件以上にのぼると言われている。

近年、デザインの領域が拡大するにつれて、製品だけでなくサービスや取り組みもグッドデザイン賞を受賞するようになった。

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そうしたなかで、2018年に「観光資源を活かした地域と文化づくり・彼岸花の結婚式」というプロジェクトでグッドデザイン賞を受賞した企業が、愛知県半田市にある株式会社カネマタだ。

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この店は、1000着以上という知多半島最大級の品ぞろえを誇る貸衣装店で、代表取締役の鈴木雅貴(すずき・まさき)さんは、この「彼岸花の結婚式」を企画した人物として知られている。


2.将来の夢は

鈴木さんは、1974年に3人兄弟の長男として生まれた。

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両親が会社の前身である「カネマタ衣裳店」を経営していていたため、不在のことが多く、夕食は祖母が家へつくりに来てくれていたという。

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小さいからおとなしい子どもだったが、少し人と変わったところがあった。

小学校のときには周りは女子だらけの演劇クラブに入って人前で劇をすることもあったようだ。

中学に入ると、剣道部へ入部。厳しい部活だったが、3年間汗を流して練習に打ち込んだ。

高校へ上がると、浦沢直樹さんの漫画『MASTERキートン』を読んで、考古学者へ憧れを抱くようになった。

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「映画も好きだったので、映画の専門学校にでも行こうかなと思って先生に相談したら、『お前がそこへ行ってもしょうがないだろ』と言われて諦めたんです。それぐらいの夢だったんですよね」


3.米国へ

大学受験をしたものの志望校に受かることができなかった。

そこで心機一転し、「米国に行きたい」とサンフランシスコへ渡米し、1年間英語学校で必死に英語を学んだ。

英語の先生からの勧めで、翌年からはカリフォルニア州立のコミュニティ・カレッジである「デ・アンザ・カレッジ」へ入学。

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3年間通ったあと、編入学という形で「サンフランシスコ州立大学」に進んだ。

当初はビジネスを専攻していたものの、面白さを感じなかったため、考古学者に憧れていたこともあり歴史学を専攻した。

ところが、西洋史などを学んでいく難しさを感じるようになり、現地で知り合った異国の友だちと交流していくうちに、異文化とのふれあいに楽しさを感じ、最終的には文化人類学を専攻し卒業したというわけだ。

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週末になると現地の日本食店でアルバイトをしていた鈴木さんは、25歳で大学を卒業した後も1年間は同じ日本食店で働くようになった。

ちょうどビザが切れるタイミングで両親が離婚

父親が家を出ていってしまい家業がまわらなくなってしまったため、鈴木さんが急遽店を手伝うことになった。


4.38歳からの会社経営

「26歳で帰国して店を手伝っていたんですが、母親と喧嘩して30歳から東京へ行って携帯電話の販売店で派遣社員として働いていたんです。3年ほど働いて、実家の経営がいよいよ危なくなってきたときに会社へ戻ったんです」

鈴木さんは母親が第一線から退くことを条件に、38歳で法人化してから3代目となる代表取締役に就任し、人事も一新した。

「その頃は、人を使うことが上手くできなくてすぐに辞めてしまう人も多かったんです」と当時を振り返る。

貸衣装だけでなく写真撮影なども含めた総合プロデュースを行うようになり、社名も「株式会社カネマタ衣装店」から「株式会社カネマタ」へと変更した。

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「今年で創業114年です。創業当時は、着物などの衣料品の販売が中心で、やがて結婚式の貸衣装へと変わっていきました。戦後は、焼け野原に着物を持っていき食べ物と交換することで飢えをしのいでいたようです」

そう語る鈴木さんは、次々と斬新な企画を打ち出していった。

「ロケーションフォト」と題し、市内の観光地や名勝旧跡を使ったウェディングフォトの撮影を開始。

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やがて評判となり新聞にも取り上げられるようになったことで、彼岸花の悪いイメージを変えようと300万本の彼岸花を川沿いに植えていた人たちから企画打診の依頼を受けたというわけだ。

鈴木さんが企画した「彼岸花の結婚式」とは、川沿いにある神社で神前結婚式を行ったあと、人力車に乗った花嫁が花嫁行列として咲き誇る彼岸花の中を親族や見学者と一緒に練り歩くというものだ。

地元の高校生に巫女を依頼したりお囃子の演奏を地域の人たちに頼んだりするなど、地域が一体となってイベントを作り上げている。

鈴木さんによると、秋口の1週間という期間に1年に1組限りというこの結婚式を継続して開催していったことでこの結婚式は話題を呼び、「自分も参加したい」「見に行ってみたい」という声が上がるようになったようだ。


5.人生に彩りを

そうした地域との関わりだけでなく、近年は成人式にも力を入れるようになった。

例えば、成人式を迎える女性の喜びを追求していった結果、ネイリストや髪飾りをつくる職人を呼んできて着物に合わせたネイルや髪飾りを制作するなど、女性の魅力が最大限に輝くことを目指している。

館内にはスタジオも完備し、着飾った姿をそのまま撮影してもらうことも可能だ。

「最初に『彼岸花の結婚式』を開催した2008年、喧嘩していた祖母と仲直りをするために『明日どこかへ行こうね』と約束していたんです。でも、その日の夜に、祖母は脳梗塞で倒れて寝たきりになってしまったんです。祖母が倒れてから仕事も上手くいかないし、精神的にもひどく落ち込んでいたんです」

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その後、2012年に祖母は他界。

お婆ちゃん子だった鈴木さんにとって、「あのとき優しく接しておけば」という後悔は続いていたようだ。

そんな祖母は鈴木さんの母親とも仲が悪く、いつも母親の悪口や「楽しみがない」ことを口にしていたという。

そうした思いもあって、鈴木さんは「人生に彩りを」という言葉を自社の経営理念に掲げた。

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「生きる楽しみをつくりたいんですよね」と鈴木さんはつぶやく。

新型コロナウイルスの感染拡大により、各地で成人式が中止になってしまう状況下でも、成人の日に古民家でロケ撮影を企画した。

「成人式は、本人もそうですけど、育て上げた両親にとっても大きなイベントなので」と日本茶と和菓子を提供して、家族団らんの時間を過ごしてもらうことが狙いだ。

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「成人式の挨拶なんて覚えていないかも知れないけど、成人式に家族と一緒にあの古民家で写真撮って貰ったことなどは必ず覚えていると思うんですよ。そうした一生の思い出づくりを行っていくことが僕らの仕事なんです。有意義な価値を提供するという意味で、知多半島で圧倒的に一番の店舗になりたいと考えています」


6.「ハレ」の日の仕掛け人

民俗学者の柳田國男は、日本人の独特な世界観を「ハレとケ」という言葉で定義した。

古くから、日本人は、普段通りの日常を「ケ」の日、お祭りや年中行事を行う日を「ハレ」の日と呼び、日常と非日常を使い分けていた。

そんな現代の暮らしが、新型コロナウイルスの感染拡大により、「ケ」一色になってしまった。

「ハレ」に関わる動きが休止されて経済が停滞し、伝統的な祭礼やイベントも軒並み中止や延期になっている状況だ。

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僕たちは身近にあった「ハレ」がなくなって初めて、その有り難さを痛感していると言えるだろう。

そうした意味においても、一人ひとりの人生に彩りを与えようと邁進を続けている鈴木さんの取り組みは、貴重だ。

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僕たちは、たった一度の人生のなかで、「ハレ」の日を誰とどう過ごしていくのだろうか。

どうせなら後悔のない日を過ごしたい。

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それを叶えてくれるのが、鈴木さんのような人なのだろう。


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