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甲斐 恵美子「後悔しない人生を」

1.身近に潜む病

日本人の2人に1人が生涯のうちで癌にかかると言われ、癌になることは決して他人事ではなくなっている。

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近年は医学の進歩により、癌の治癒率は着実に上がっており、癌の経験者や癌治療を継続している「がんサバイバー」の数は700万人を数えるという推計もある。

いまや癌は「不治の病」ではない。

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甲斐恵美子(かい・えみこ)さんも、2017年に乳癌と診断され、現在は寛解している「がんサバイバー」のひとりだ。


2.生きづらさを抱えていた頃

甲斐さんは、1970年に大阪府枚方市で2人姉妹の長女として生まれた。

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6つ下の妹が生まれるまでは、一人っ子としてわがままに育ってきたようで、ひとりで好きなところへ行っては、よく迷子になってしまうことも多かったようだ。

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小学校高学年のとき、男子生徒から、当時世間を賑わせていた巨額横領・詐欺事件の容疑者と名字が同じだったことをからかわれたり、アトピー性皮膚炎の症状をバイキン扱いされたりとイジメを受けるようになった。

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「人間関係しんどいな」と少しずつ生きづらさを抱えていたようだ。

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中学校入学を機に、心機一転しようと、委員会などへ立候補するようになったが、2年生のクラス替えで仲の良い友だちと別々のクラスになってしまったことで、再び疎外感を感じるようになった。

しばらく経つと不登校の兆しが見え始めた。

中学を出てで働くこともできず、私立高校は学費が高くて進学することもできない。

なかなか決まらない自身の進路に対して、「人生絶望や、どうしたらええんやろ」と不安感を募らせていったようだ。


3.白衣の天使だったけど

結局、新たに市内で開校した公立高校の1期生として入学することができた。

中学のときと同様、1年生のときは、バレー部に入るなどして楽しむことができていたものの、2年生のときにクラス替えで再び知らない人たちの輪の中に入ることになり、再び甲斐さんは孤独感を感じるようになる。

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不登校となり、高校3年生のときには英語の授業をあと1日休んでしまうと出席日数が足りず卒業も危うい状況だったという。

卒業式を迎えても未だ進路は決まっていなかった。

「4歳ぐらいで骨折して入院したとき、病院の看護師さんに憧れを抱くようになったんです。当時、見習い看護師のような形態があって、資格がない人が勤めながら看護学校へ行けることを知ったんです。『それやったら働きながら学費も貯めれるし』と思って、4月から八尾市内の産婦人科で寮生活を送りながら受験勉強を始めたんです」

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1年経った19歳のときには、無事に看護学校へ合格することができた。

ところが、知人の紹介で出会った1歳下の男性と付き合っていくうちに「俺より高収入だと、俺の仕事へのモチベーションが下がるから資格を取るのを辞めて欲しい」と告げられ、あっけなく甲斐さんは看護学校も病院勤務も辞めてしまったようだ。


4.再び看護師へ

彼の実家で一緒に住むことになり、25歳で結婚し、ひとり娘を授かった

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彼は閉店後のパチンコ店で照明設備の電源ユニット交換工事やスロット設定師などの仕事に携わっており、専業主婦だった甲斐さんは一緒に手伝いに出かけていたようだ。

ところが、3年ほど経った頃に別居となり、それから7年ほど経って、ようやく離婚が成立した。

 別居時は実家へ戻り、薬局で医療事務のパートとして働いたが、「娘と暮らしていくにはパートの給料だけでは不安だ」と感じ、娘が4歳のとき、働きながら大阪府医師会看護専門学校へと進学し、准看護師の資格も得ることができた。

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「准看護師の免許を取って、さぁ働こうってなったときに、世の中が正看護師を求める時代になってたんです。クラスメートの半数以上が准看護師から正看護師になるコースへの進学を希望してたから、試しに受験したら合格して正看護師になるために再び働きながら学校へ通い始めたんです」

しばらくは薬局でパート業務を続けていたが、「看護の世界を知らないまま実習に出るのは怖いな」と思い立ち、2年生のとき、枚方市内の病院へ就職した。


5.限界を迎えた、あの頃

当時は、夫と離婚協議中で別居状態が続いていた頃。

夫は別の恋人とマンションを購入するために、甲斐さんに「連帯保証人になってくれないか」と相談を持ちかけていた。

『連帯保証人にならないと毎月の仕送りを止める』って言うんです。看護学校の学費や生活費などもあってお金に余裕がなかったから、ハンコついてしまったんです」

未経験の仕事によるストレス連帯保証人になってしまった罪悪感が交錯し、朝になると布団から出れず、看護学校に行くことができなくなった。

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常に泣いている状態で「『死ぬにはどうしたらええんやろ』といつも考えてました」と当時を振り返る。

通院の結果、鬱病の診断を受け、1年間休学することになったようだ。

「半年間くらい鬱状態で何もできず、死ぬことも考えたけど、『娘もいるから人に迷惑をかけず死ぬなんて無理やな』と。学校には籍もあるし准看護師の資格もあるから、自分のできることから少しずつやっていこうと思いました」

ハードだった病院の部署を異動してもらうことで、徐々に仕事復帰することができた。

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やっと自分の居場所を見つけることができたのだろう。

学校も復学し無事に卒業することができ、国家試験を経て正看護師になることもできた。

さらに無事に離婚も成立し、懸念していたマンションの連帯保証人の件も立ち消えていったようだ。


6.突然の転機

そんな甲斐さんに転機が訪れたのは、2017年冬のこと。

胸を触ったときに1センチほどのしこりを感じ、看護師として癌に対する知識もあった甲斐さんは「これほど大きいと癌では無いだろう」と思い込んでいた。

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ところが、次第にしこりは肥大していったため、精密検査を受けたところ、乳癌が発覚し、脇の下へのリンパ節転移も発見された。

医師から「手術は避けられない」と告げられた甲斐さんは東京に名医がいることを調べ、乳房全摘術を受けることになる。

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「乳癌が分かったとき、経験者のブログを読み漁ったんですけど、抗癌剤治療をしながら働き続けている人がいなかったから、いまのまま治療を受けてみよう」と甲斐さんは働きながら、癌の再発や転移の危険性を減らすために3週間に1度のペースで抗癌剤投与を行うことを選択。

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幸いなことに現在は寛解し、定期的な健診を受ける程度だと教えてくれた。

「ほんとうに生きててよかったなという思いがあるけど、どんなにしんどいことがあっても、いつかきっと良いことってあるんじゃないかなと感じるんです。私は何度も人生のどん底を味わってるから、あとは這い上がるだけです。人生は、いつでもやり直せるんですよ

そう語る甲斐さんは、娘を授かる前から通信課程で短期大学を6年掛けて卒業し、その後も通信課程で同大学の法学部を10年掛けて卒業している。

さらに、それだけではない。

ホームヘルパー2級、医療事務、薬局事務、医事コンオペレーター、漢字検定、アロマ検定、ハーブ検定、フラワーエッセンス、レイキ、ヒプノセラピー、カラーセラピー、数秘、タロット、ボイジャータロット、ライフツリーカード、ボイトレ、ドラム、ギター、津軽三味線など習得した資格などは枚挙にいとまがない。

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「より良く楽しく生きていきたいと思うけど、それだけでは感覚すぎるから、具体的にこうしたからこうなったよというのを目に見える形で伝えたい」と自身のコミュニケーションの苦手さを克服するため、近年では禅とNLP(神経言語プログラミング) とコーチングをベースとしたPCM(プロフェッショナル コミュニケーション モデル)の資格を習得し、現在はファシリテーターとして活動する準備を進めている。

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「癌経験者とお付き合いしてくれる人なんているかなと思っていたけど、1年ほど前に、いまのパートナーと知り合うことができました。これもPCMでコミュニケーション技術を学んでるお陰かも知れません」と笑う。


7. たった一度の人生だから

ひとは誰でもよりよい人生を歩みたいと願っている。

それでは、よい人生とはいったいなんだろう。

高級車に乗ることだろうか。

高級なブランド品を身につけることだろうか。

豪邸に住むことだろうか。

たくさんお金を稼ぐことだろうか。

ひとの価値はそれぞれだけど、死ぬときに後悔してしまっては元も子もない

たった一度の人生だ。

後悔しない人生を歩んでいくためにも、甲斐さんのように常に前向きな実践は、僕らの背中を後押ししてくれる。

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例え傷ついて挫折してしまっても、大丈夫だ。

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僕らは、きっと立ち上がることができる。

それを彼女の生き方が教えてくれている。


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