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仲良く生きていけたら楽しいのに(呪術廻戦 懐玉/玉折)

夏油回、視聴直後は全然そんなことなかったのに時間差で虚無感に襲われ、昨晩は親友と通話しました。これが反転術式をマイナスな方へ使った結果か五条?呪うぞ?(違う)

わたしは感覚過敏だからか苦手なことがたくさんある。例えば街中の公衆トイレはもちろん、同居人が使用したあとの家のトイレすらできれば利用したくないし、大きな音や眩しい光が苦手なので映画館も得意ではない。友達と会うときは、周囲の雑音に気が取られないように個室のある店を選びがちだ。
ハッピーエンドで終わらない話も嫌いだ。登場人物の感情の揺れ動きを見つめるのは好きだし、一筋縄ではいかない紆余曲折あるストーリーも大好物だが、幸せになって終わるという確約がほしい。悲惨な結末を迎えてしまえば最後、わたしは感情の波に飲み込まれ、数週間あるいは数ヶ月間、ヒステリーと無気力の同居した情緒不安定な猿と化してしまう。
そして、この世で一番苦手なのが人の死だ。

病気が発覚してから4年後の大学1年生の夏、わたしはとある人の訃報を耳にした。その人はわたしと同じ病気を抱え、胸につけられたチューブから薬を投与され、強い副作用に耐えながらも渡米して人生を謳歌しているタフな女性だった。中3のときに病気が理由で修学旅行先のオーストラリアに行かせてもらえなかったわたしにとって、その女性は憧れであり、「お姉ちゃん」と慕っていた。

なぜ訃報を聞くことになったのかはっきりとは覚えていないが、入院中に他の患者さんたちと喋っていたとき、誰かがうっかり口を滑らせたのだと思う。お姉ちゃんは1年前に亡くなっていたらしい。
その日の夜は、初めて入院したときからお世話になっていた看護師さんが受け持ちで、廊下でめそめそ泣いていたわたしに気がつき、消灯を過ぎても泣き止むまで背中をさすってくれた。「本当に頑張ったんよ」と、お姉ちゃんの最期を静かに語る彼女の瞳から零れ落ちる涙を見ながら、そう遠くない将来にわたしも同じように死んでいくんだなと感じていた。

それからは定期的に患者さんの訃報に接するようになった。大きく狼狽えたのは「お姉ちゃん」のときだけで、以降はどれだけ親しい間柄の方が亡くなっても一粒も涙は出なかったし、ほんの少しは悲しくてもすぐに気持ちを切り替えられるようになっていた。すっかり死に慣れて平気になったんだと自分でも思っていた。

大きな虫歯ができて歯医者で神経を引っこ抜かれ、どのくらい頬が腫れるんだろうか、とパンパンになった自分の顔を想像しながら歩いていた帰り道、わたしはいきなり血を吐いた。
何日か見て見ぬふりをしていたけれどついに誤魔化しがきかなくなり、病院へたどり着いたあとは人工呼吸器を装着するハメになった。すーっと息を吸うと呼吸器側が酸素を送り込んできて、無理矢理肺が拡張される。心頭滅却しようと試みても苦しいものは苦しい、辛いものは辛い。だけど、拒否することは許されずにただ受け入れるしかない。
呼吸器が生成した多量の酸素と誰かの訃報で、わたしの胸はいっぱいいっぱいになっていた。「もう嫌だこれ以上頑張れない、お姉ちゃんと同じ28歳には死にたい」と主治医の前で初めてネガティブな言葉を吐き、初めて泣いた。

自分で言うのは憚られるが、わたしはとても健気な女の子だった。このままだとあと1年で死ぬよと言われたときも、14歳の身体と心で耐えるにはあまりにも酷な処置や手術を受けたときも、大好きな運動を辞めろと言われたときも、いつだって前を向いてニコニコと笑っていたし、挫折を許さずにどんなことも乗り越えようと頑張っていた。でも本当はちょっとだけ辛かった。
だんだんと我慢できなくなってどうしようもなくなったころ、自分の中にもうひとりの自分がいることに気づいた。一生懸命頑張っているときにそいつは頭を出し、「ホントは頑張りたくないくせに」、「どうせ死ぬんだから頑張っても意味ないやん」とネガティブな言葉ばかり吐いてくるのだった。

もうひとりの自分は普段は大人しくしているくせに、自分の努力ではどうしようもないことに直面すると力を増す厄介なヤツだ。
わたしにとって人の死は、自分ではどうすることもできない最たるもので、受け入れようと頑張ってはみるものの、受け入れたくないとゴネる自分も常にいた。何とか受け入れたところでまた新たな訃報がやってくるし、そのタイミングは自分では決められない。
それに、昔の自分は敢えて感じないようにしていたけど、やっぱり悲しいものは悲しいし、苦しいものは苦しい。会いたいものは会いたい。自分の感情に蓋をして見て見ぬ振りはできるけど、長くは続かない。そんなことを繰り返していると、やがて少しずつ内容物が溢れ出てきて、自分の心がじわじわと死んでいくのを感じる。
夏油の言葉を拝借するなら、周囲の死とそれを受容しようとする儀式は、わたしにとって終わりのない「マラソンゲーム」だ。

わたしは今日も自分ではどうしようもない色んなことに悩んでいるけれど、それでもなんとか生きていくんだという選択をしている。過酷なマラソンコースを一緒に走りたいという夫にとんでもないタイミングで出会い、ひょいっとすくいあげられてしまったからだ。
わたしは夏油と違い、夫にだけはどす黒いもうひとりの自分を見せることができる(夫は嫌だろうけど)。だから多分きっとこれからも、相対するふたりの自分に揉まれながら生きていくんだと思う。けれど、それは時にすごく苦しくて疲れるし、やっぱりやめたくなるときもある。

夏油はそれまでの自分と決別して、もうひとりの自分だけを選んだ。そいつと生きていくことを胸に決め、捨て去った自分に関連するものを清々しいくらい徹底的に排除した。
なるべくまっすぐ生きていくとは決めたものの、心の中のもうひとりを殺すことができないわたしには決してできない選択だ。
だからわたしは極端な選択をした夏油に、ある意味で憧れて恋に落ちたのだと思う。まあそんな深い理由はまったくなくて、単にビジュアルが好きなんかもしれんがな!

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