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我が子への愛情という、魔物。

朝の通勤時間に聴いていたPodcast の衝撃。の話。

COTEN RADIO

 わたしが全人類に薦めたいす。(「日本人のための第一次世界大戦史」をいま読み進めています。500ページ以上あってけっこう大変です。) サポーターではないのが心苦しいところです。

 それはさておき、きょうの話は、衝撃的でしたね。

 親が子に対する愛情の起源が、語られていました。


当たり前のことは、実は…。

 最近配信のシリーズは、「教育の歴史」。

 ヒトはなぜ、学ぶのか…。

 正直、この話は、けっこう難しいな、と思っています。前シリーズの「織田信長」も難しいなと思ったけど、さらに難しいですね。

 そして、きょうの話は、きつかったな…。

 『親が、子に示す愛情は、かつては当たり前ではなかった。』

 そんな発想、持ったことがありませんでした。まだ理解が追い付いていません。


中世ヨーロッパで大学ができたことに始まり…。

 (詳細は、上のリンクから確認していただくとして。)

 親が子に愛情を注ぎたいと思うのは、社会変革によってその後から生まれた挙動であった。との見解が、語られていました。

 パーソナリティーの樋口さんもビックリされていましたが、わたしもビックリしました。

 親が、子に、愛情を示す。

 これは人類の本能だとわたしは思っていたからです。でも、実はそうではなかったんですね。

 『教育する必要が出てきたから、「子ども」という概念が生じ、「この子を育てよう」とういう意思が生まれ、それが愛情になった。』

 正直、いまだに、信じがたい発想です。

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 中世ヨーロッパで大学に行くということが、出世に有利なステータスとなっていく。そうなると、これまで『子ども』に教育するという概念がなかったところから、教育することに意義が生まれるようになった。

 子どもに対して、教育するという投資を行う必要が出てきて、投資をするからには大切に育てようと思うようになる。

 それが、愛情と…。

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 そんなはずはない、と思いたいところではあったのですが。

 (あぁ、実際そうなのかもな…)


育児放棄、自己投影…

 「必ずしも、自分の子は大切に育てたい、と思うひとばかりではないかもしれないな」と、頭をかすめるわけです。

 本能的に、親が子に愛情を注ぎたいと思うのであれば、こんなことは起こらないよね、と思うような事件。けっこうあります。それはごく一部の例外的な事件なのだと思っていました。けど、実際は、愛情を注ぎたいという内発的な動機が、その人には生じなかったということなのかもしれません。

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 また、『自分が素晴らしい人物であるために、自分の子もまた素晴らしい人物でなければならない』そんな思想に出会った経験があります。

 ずいぶんと歪んだ発想だと嫌悪したものでしたが、それもある意味、起こりえることだったのかもしれません。


乳児死亡率をおもえば…

 ラジオの中で語られていたことから…。

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 「乳児死亡率が高かった。そのせいで、ひとりひとりの子どもに愛情を注がないことで、自分を精神的なダメージから守っていたのかも。」

 自分の子どもが死ぬたびに、悲しんでいられない時代だった。そのことも、背景にあるかもしれない。

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 時代背景にはいろんな要素が絡んできていて、実際にどうであったのかを推察するのは大変難しいことだと思います。


期待しすぎないこと

 こどもに対するわたしの思想は「期待しすぎない」ことです。愛情はあります。だけど、無理に・過度に発露させないようにしています。

 それが、幸せだと思うからです。


 愛情の発露が、強い方がいいのかと、考えることは今もあります。でも、結論としては、しないほうがいいと思うわけです。

 その考えを、ちょっとだけ肯定されたような気がしました。


 人類は必ずしも、子どもに愛情を注いできませんでした。いまは愛情を注いだ方がいい社会構造だから、それを示していることが正義のように見えているだけかもしれません。


 まぁ、愛情は多い方がいいとは思うわけですが、その示し方にはいろいろあるなと…、そういうことですね。大学に行かせた方がいいから、行かせる愛情は、ただのエゴの言い換えかもしれません。


正直なところ

 きょうの話は本当に難しいですね。「教育の歴史」は本当に難しい。

 だからこそ、学ぶことも多いです。


 なんとも朝から、動揺の多いことでした。


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