見出し画像

わたしの出会った判事たち -10-

フツーに見えてフツーではない(2)

その当事者は最初はとても大人しかった。
ところが途中で、「録音していいですか」と言ったのだ。

「録音は許されていません」と言うと、顔色が変わった。
「裁判長を呼べ。裁判長を」
どんなになだめても聞かない。
男性委員が「とにかく判事さんを呼ぼう」とささやいた。

電話で書記官にI判事を呼んでもらった。判事が部屋に入ってきた。いつもと変わらない温かい笑顔で席につく。

「なんでダメなんだ。録音されると困るのか」
「録音は禁じられています」
「調停委員がバカなんだ。バカという証拠を国に出してやる」
「でも、録音は禁じられているんですよ」
I判事は穏やかな口調ながら一歩も引かない。

男性は立ちあがり、やおら片足をどんと机に載せた。書記官に来てもらうべきか。わたしの意識は非常電話へ。
「録音して悪いのか」
判事はにこにこ笑いながら静かな口調で、
「足を机に載せてはいけません」
男性はちょっとうろたえた。
「何?」
「机は足を載せる所ではないのですよ」
「……」

「とにかく、お話ししましょう」
「こいつらバカと話してなんかいられるか」
「そうですね。自分で解決出来たらそれに越したことはありませんね」
「……」

「ここは話し合いの場です。話し合いにはルールがあります」
「ルール?」
「ルールとして録音は禁止です」
「バカヤロー、ガソリンまいてやるからな」

いけない。非常電話!
しかし、判事はいつもと変わらない自然な表情だ。そのとき、わたしは一瞬思った。

この判事と仕事の場で一緒に死ぬのなら光栄だ。悔いはない!

「録音は禁じられているけど、メモは自由ですよ」
判事はゆったりといつもの口調で言った。
男性はちょっとの間、目を宙に泳がせていたが、ゆっくりと足を下ろした。判事は、
「ではあなたの言い分、お聞きします」

夫と妻が絶対顔を合わせることのないよう細心の注意をはらい、判事の采配のもと、調停は進行した。
終わった時、
「判事さん、怖くなかったですか。わたし、怖かったです」
I判事はお茶目な笑顔を見せ、
「ちょっと怖かった」とだけ言うと、何事もなかったように部屋を出ていった。

あちこちで調停が終わったのか、廊下が少しにぎやかになった。何事もなく昼休みとなる。
やっぱり、フツーに見えてフツーじゃない。ここぞと言う時の対処、これぞプロ中のプロ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?