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台湾・わたしの家族が戦前住んでいた地

羽田発、台北・松山空港行きの飛行機に乗る。5年前。姉76歳、わたし69歳。体力あるうちにとツアーに申し込んだのだ。

わたしたちにとって台湾は特別な地。亡くなった父母の思いと兄からの情報を肩に乗せている。自由時間に、かつて住んでいた場所に立つのだ。

わたしが調べた限りでは台湾は日清戦争後、日本のものとなり、日本が統治していた。太平洋戦争終結後、日本は撤退を命じられ、かの地に住んでいた日本人数十万人は強制送還されることとなった。

父は台北市の日本人学校教師として赴任。直後に開戦。学校は軍人に支配されることとなったとか。

アメリカ軍の大空襲下、わたしは病院で生まれた。医師がまだ無理と引き止める中、母は振り切って退院。翌日、病院に直撃弾が落ち病院は吹っ飛んだ。わたしは一日違いで生き延びたのだ。

終戦となり、一歳の私を連れて家族は引揚船に。キールン港で赤痢とジフテリアが蔓延。船は病原菌の巣窟。多くの老人、子どもが死んで海中に捨てられたという。

「毎日、死体を投げ捨てる音が船底まで聞こえた。美智子が飲めるものは米の砥ぎ汁だけ。泣声も立てず、半分死んでいたよ。船の中で生きていた赤ん坊はほとんどいなかったんじゃなかったかな」

家族に言われるたび、自分が可哀そうで泣きたかった。そのうち腹が立った。生きていて悪かったね、と怒鳴りたかった。

「終戦まで台湾は美味しいものがたくさんあって、台湾の人は親切で、日本に帰って来てからが地獄だった。食べ物はないわ。引揚人と苛められるわ」と兄と姉。

亡くなる前、父は「ここは台湾か」と嬉しそうに言った。母は「もう一度台湾で美味しい物食べたい」と言ってため息をついた。わたし、今から行くよ。二人の分まで食べてくるからね。

出発する前、図書館で台湾の古地図をコピー、「大正町」を見つけ、ガイドブックと照らし合わせる。かつての我が家は、宿泊する「アンバサダー ホテル台北」から三越デパートを過ぎて、少し行った辺りだ、きっと!

松山空港に着いた。夏の空は澄み渡り、風はサファイア色。

一日目。邊田荘の創作中華料理、チョー美味しかった。

二日目。故宮博物院。ここの美術品は、日本兵から壊されないよう、命懸けで中国から船で運ばれてきたという。レストランのフルコース、美しいこと。食べるのがもったいないぐらい。奮発して高いツアーにしてよかった。

台湾式の茶道。びっくりだよ。高い所から、ドバーッと茶碗に注ぐ。ダイナミックかつワイルド!

キュウフン。石段がきつかったけど頑張って上まで行った。異国って感じ。

いよいよ三日目。半日の自由時間がある。地図と兄のメモ、資料を手にホテルを出る。途中、ブティックに寄ったり、三越のぞいたり。

「大きな日本料理店が建っているらしい」と兄の友人が教えてくれた。台湾で同じ中学校に行っていた人だ。情報のかけらを頼りに歩き回る。ほどほど賑やかでほどほど閑静な商店街。「青葉」と大きな看板の日本料理店が。

わたしたちが入れるような店ではない。高そう!。姉は興奮状態であちこち見回している。

「桶屋。ほら、林田桶屋って看板が」

姉の視線の先、大きな桶屋が。「子どものころ、近くに桶屋があったこと覚えてる。やっぱりここよ」姉は叫んだ。

道行く人に姉はあれこれ聞きまくる。日本語が通じるよ。台湾は。

「戦争で焼けたけど,再建して代々あそこにあるんだって」姉は呆然自失の状態。「やっぱりここよ。青葉が建っているここ」

この辺に日本人教員住宅が並んでいたのだ。当時は焼け野原になったが、今は静かな商店街。

青葉の前で記念写真を撮る.買ったばかりのデジカメ、使い方がよく分からない。シャッターを押しまくる。姉の腕もお粗末、良い写真は撮れなかった。皆、ブレたりボケていた。

ま、いいか。お父さんとお母さんの位牌の前に飾ろう。

次にわたしが生まれた病院の跡地を捜す。総督府近くの小さな公園。「多分、この辺。大きくは違わないと思う」と姉。

母の言葉を思い出す。「空襲警報が怖くて、病室で泣いていた。死んでもいいから家に帰ろうと思って退院したんだよ。あの時のお医者さんも看護婦さんも爆弾で死んだって、後で聞いて、ああ、神さまに守られたって……」

今は総督府を見て来た日本人観光客が洪水のように歩き回っている。

四日目。モーニングバイキングのお粥、果物をたらふく食べ、ホテルにマッサージ師を呼んでマッサージしてもらう。こんな贅沢、もう二度とないだろう。

昼はホテルのレストランでサンドイッチとコーヒーを。入り口に高砂族の写真と衣装が置いてある。台湾島の先住民族だ。

父が話していた。「高砂族は勇敢で礼儀正しかった。軍に捕まえられてトラックに入れられて可哀そうだった」と。

引揚船が出発したキールン港には行けなかった。何万人もの日本人を日本へピストン輸送したという。沈没した船あり、半数近くが病死した船もあったらしい。死者の数も名前も残っていない。

集合場所松山空港へ。

ありがとう。台湾。美味しかった台湾。戦後の混乱状態の中、わたしたちを無事に送り返してくれた台湾。台湾の人たちの親切な計らいがなかったら、どれほど多くの人が悲惨な目に遭ったか分からない。死者のほとんどは船中の病死だけだったと、わたしは聞いています。

さようなら。美麗島。古にそう呼ばれた島。わたしが生まれた地。

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