見出し画像

ほんとうは怖~い源氏物語(5)

生れた御子の姿はこう表現されています。

☆めづらかなる児(ちご)の御容貌(おんかたち)なり……

パンダか、ミッキーマウスみたいな子?と思ってしまいますが、古典文学全集(小学館)では「尋常ならざるご器量」と訳されています。素晴らしい訳!いくらでも想像が膨らむ……

帝は嬉しさのあまり、更衣ちゃんの部屋を桐壷よりもっと格の高い部屋に移した。しかも前からここに住んでいる別の更衣を追い出して, ですよ。その更衣からも恨まれること限りなし~

「尋常ならざる容貌」の息子にぞっこんの帝、この子の三つのお祝いのとき、皇室財政を無視してあきれるほど盛大な祝いをしたのです。4歳の長男がいるのに、長男の時より豪勢にした!(この時、帝18歳とすると14歳でパパになったんだ!)

そりゃ、周囲が目を回すわ、怒るわ、嘆くわ。「これでは国が亡びるぞよ。中国の玄宗皇帝じゃあるまいし」と。

長男のお母さんは弘徽殿の女御。弘徽殿というのは、中宮・女御クラスのキサキの部屋であり、呼び名にもなっています。今までは意地悪女の横綱とみなされていましたが、最近、女性研究者や作家がジャンジャン違う解釈をするようになりました。

ダメ夫の帝の代わりに宮中のルールを守ろうと一人で悪役を引き受けている。源氏物語の中で、一番タフで有能な政治的女性、とファンが増えてきたのです。

ちなみに、紫式部が仕えた彰子は成人し、ものすごい政治力を発揮。父道長も抑え込み、実に80 過ぎまで政(まつりごと)の実権を握っていた。後白河法皇の代まで子、孫、その孫、と直系の子孫を天皇にした!

彰子はモノガタリの弘徽殿に影響を受け、弘徽殿を目標にしたのかも……そうだとしたら、紫式部の遺した最高傑作は「彰子」だったのかも、です。

源氏物語に登場する女性たちに対する好悪や解釈は、時代と共に変わってゆく。だからこのモノガタリは千年も残ったし、これからも残る。たとえ日本が滅びても(瀬戸内寂聴講演より)

弘徽殿のモデルは誰か。人それぞれ想像してくださいな、と彼女は千年前の霧の彼方でモナ・リザの笑みを浮かべているだけ~。

更衣さんは御子3歳の夏、具合が悪くなり、あれよあれよといううちに悪化。里下がりする前に詠んだ歌、

☆かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

(いつかは悲しい死の道に行かなきゃならないことはわかってる。でも、わたしが行きたいのは生きる道、命へ通じる道なんだよ~死にたくないよ~)

悲劇の皇后定子の辞世の歌は

☆知る人もなき別れ路にいまはとて心細くも急ぎたつかな

見事にセットになっています。当時の貴族たちは更衣の歌を読んだだけで定子の歌を思い涙にくれたでしょう。紫式部自身、定子を思い、涙にくれながら更衣の歌を作ったのだと思います。

その後、更衣は「こんなことになると分かっていたら」とだけ言って後は語らない。そして里に帰った途端死んじゃった!

この辺り、国文学者が様々に分析解釈し『更衣は毒を盛られた。そして更衣はそれを知っていた。でも、それだけは誰にも言わないから子ども(光)を天皇にしてよ、と帝と取引をしようとしたが力尽きた』という説が生れました。

更衣の母は、娘の死を「横死」とはっきり言っている。つまり「尋常な死ではない」と。

紫式部は読み手がいかようにも想像できる余白をあちこちに残している。恐ろしいほどすご腕の作家~

真実は紫式部しか知らない。桐壷の巻、最大の、そして永遠の謎……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?