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何のために古典を学ぶの?

遠い昔、誰かに言われた。

「1000年も前のことを知ってどうなるの?古典を勉強して何の役に立つの?」と。答えられなかった。この人とは友達になれないな、と感じた。実際、友達にはなれなかった。

歳月が経ち、公民館で高齢者相手に古典を教えるようになり、この昔の問いが頭をかすめることがあった。

いまさら、『源氏物語』の講義を1、2回受けてどうなるわけじゃなし。落語講座みたいに聞いていて面白いわけでもなし、歯磨き講座みたいに役にたつわけでもなし。

何のために古典を学ぶの?

実際、こんな体験をしたことがある。

担当者の方(多分、小学校の校長先生をしていた方だろう)が、「講義を始める前に皆で高齢者学級の歌を歌います。それからちょっと次の『焼き芋講座』の説明をします」「じゃ、それが終わってからわたしが教室に入ればいいのですね」

「いえ、皆さんの歌を聞いて、褒めてあげてください」

「はあ」

「みなさん、褒められるととても喜ぶのです」

「はあ」

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で、わたしは『源氏物語』を始める前に、高齢者学級の歌と、「故郷」か何かの歌を聞いて、担当者の優しい目配せに合わせて拍手した。「感想を」と言われ「ス、素晴らしかったです」

それから、焼き芋講座の説明を聞き、やっと『源氏物語』の時間になった。

わたしは何しに来たのだろう。古典講座ではなく、デイケアの相手に来たのだろうか。

担当者はわたしに何を求めていたの?分からないよ~。『源氏物語』を高齢者の「焼き芋講座」や「歌でリフレッシュ」と同列に扱われても……

とても熱心で親切な担当者だったが、なんか、もう、高齢者学級を引き受けること自体間違っていたと思った。

先日、サークルで教えている生徒さんから新聞の切り抜きをいただいた。

中西進さんの『時代の証言者』という記事のシリーズだった。

その中に『学問すべては幸福のため』という章段があり、心をわしづかみにされたような気がした。(読売新聞 2019年12月2日)

今までそのような、シンプルで、わかりやすい、そして理想に満ちた考え方をしたことはなかった。

「何を求めて研究するのか。すべては幸福のためであり、あらゆる大学は幸福大学幸福学部幸福学科と呼ぶべきではないか……文学は人が残した言葉を研究し、幸福に貢献します」

そうなんだ。そういう考え方があるのだ……。

高齢者学級に参加する人たちが、

「よくわからなかったけど、源氏物語とかいうお話を聞いた。なんか分からないけど1000年前の女の人が書いた小説だ。少し、知識が増えて嬉しい」と感じただけでもいいのだ。

その時間、その人は幸福になったのだ……。

「焼き芋を作ろう」講座と「折り紙で遊ぼう」講座の間に、「源氏物語」講座が入っていることを摩訶不思議なんて深く考えることはなかったのだ。

自分が知っていることを発信し、それを受けた人が少し幸せな気分になる。それが高齢者学級なんだ。

この記事をもう少し早く読んでおけばよかったが、もう、高齢者学級の1コマで教えようとは思わない。それはもう卒業。

でも、わたしが高齢者学級でやっていたことは、少しは人を幸せにしたのかも、と思ってほっとした。

切り抜きをくださった生徒さんに感謝しています!


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